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舞踏家の身体と五輪塔─安定と不安定。
先日、五輪塔とは何かをお聞きする機会がありました。お寺や墓所で見かける、あの石塔のことです。
五輪塔は、パゴダ、ストゥーパ(仏塔)が起源ですからインド由来の概念ですが、面白いことに、△や○や□を積み上げたあの独特の姿は、日本独自のものらしい、というのです。
5つの立体物はそれぞれが火、水、地…というように五元素の象徴であり、五輪塔は、その完全なる安定状態を表しているそうです。
さらに…
この5つのエレメントは、単に物質的な意味合いだけを言っているのではなく、我々の意識状態を5つの段階として表現しているようなのです。つまり、意識、肉体、場の完全なる安定。
お話を聞きながら、私はしきりに、舞踏家の身体を五輪塔に重ね合わせてみていました。
安定なる五輪塔。石は破壊すればもちろん崩れるけれども、もしもその一連の過程のどこかの刹那に、崩壊という不安定と、睦み合う瞬間を目撃できるとしたら。
それは舞踏かもしれない。
舞踏は、「宗教」というフレームから離れたところにあるものだと私は理解しています。ですから私が言おうとしているのは、五輪塔という形を借りた、肉体と意識の話です。
そして舞踏とは、バランスの崩壊するギリギリのエッヂ(私は室伏鴻に心酔していましたので、このような言葉のチョイスになりますが)を歩み続ける身体だと理解しています。安定と不安定の狭間へ…その狭間の狭間へ…さらに狭間の狭間へと、絶えず移動し続ける身体。
ところで、安定とは何でしょうか。
不安定の反対は、言葉の上では確かに安定ですが、パゴダや五輪塔を生み出したいにしえの識者たちが説いた「安定」とは、私たちが普通に思い浮かべるような、安定を求める限り同時に不安定という対極を生み出し続けるような、そのような、対極から絶えず逃れ続けるような、「安定」なのでしょうか。
舞踏家が移動し続けている安定と不安定の、その狭間の深奥では、人は、対極に拠らない、不安定という意識に犯されることのない、安定か不安定かという二元のジャッジからも自由な、全く新しい(けれども古の者たちはとっくに発見していた)、真実の「安定」に出会うのかもしれません。
舞踏家が踊る時、私たちが目撃しているのは、真実の安定に帰り着く過程の身体、なのかもしれません。
私たちが目撃しているこの世界のすべての事象が、そこに帰り着く過程、なのかもしれません。
舞踏家と私たちが、舞踏を通して睦み合う瞬間があるならば、そして私たちが、目の前のあらゆる事象と、たとえ一瞬でも睦み合う間があれば、そこには、真の安定への入り口が、絶えず大きく開かれているのでしょう。