今朝、『東京物語』と『男はつらいよ』と現実との境目の無さに打ちのめされました。
昨日、ふとしたことからお袋と小津の『東京物語』の話になった。
小津作品の女優ならば杉村春子派である (そんな派閥があるのかよ笑) 私は、例の、あの酔った父親笠智衆が帰ってきたシーンについて力説していた。
(例の、とは、こちら『誰も彼もが本当は長い長い背景を背負っている─小津安二郎『東京物語』をご覧ください)
その流れで、
『男はつらいよ 寅次郎恋歌』で博の母親が危篤になり、さくらと共に実家へ駆けつけるシーンを思い出した。
お金持ち、良家に嫁いで鼻高々にしている博の兄妹達が、「お母さん幸せだったわよ」と言う中、博だけが幼い頃に見た母の一面を打ち明けながら、「母さんはもっとしたいことがあったのだ、そんな母さんが幸せだったもんか!」と、声を出して泣く。
言うまでもなくこれは『東京物語』のオマージュなのだけど (……そうだよね?) 、設定といい、かたや嫁(原節子)が号泣し、こちらは息子(前田吟)が号泣するという、そして最後には、嫁のさくらが「お父さんは本当は博さんと一緒に暮らしたいのでは?」と言ってしまうあたりまで、完璧なオマージュというべきかアンサーというべきか。
お袋に力説しながら、改めて感嘆を通り越して、何やら恐ろしくなった。
が、私が本当に打ちのめされたのはこのことではない。次の日、つまり今朝のことだ。
今朝、親戚の90近い爺さま、シンちゃんがポックリ逝った、と身内から知らされた。
そのことで他の身内とやり取りしていた時、やはり90に近い婆さまがこう言った。
「色々あったか知らないが、でもシンちゃんは幸せだった、他に比べたら幸せなほうだった。」
『東京物語』の両親の台詞、そのオマージュとしての『男はつらいよ』の子ども達の台詞と、同じことを言っているではないか。
完全に打ちのめされた。
今ここで幸せの価値観についてどうこうと反論めいたことを考えたくもないが、この言葉は、価値観なのだろうか。
身内が死んだ驚きからの諦め、受け入れのための所作だろうか。
それとも、同じ言葉が出てしまうほどに、彼らの年代の記憶に、小津映画が無意識に入り込んでしまっているのだろうか。
小津映画は、それぞれの作品が出演者や設定や役名が似通っているため、鑑賞者の中でいつしか渾然一体となり、リアルタイムで見ている世代にはさらに実体験の記憶とも渾然一体となっていく、ということは、異なる世代同士で小津映画を鑑賞するプロジェクトについて記した現代美術家、岩井成昭『路傍の光斑─小津安二郎の時代と現代』に書かれていた (……と思うが自室の本棚に行かないと正確に確認できない) が、
今、私の脳内にはもうひとつ、『男はつらいよ』が参入した。
小津と現実との間に、寅さんという1つのクッションを挟んで、やがて私の記憶も3者の境目が無くなってしまうのではないだろうか。
あと数十年して、
私がヨボヨボの婆さまとなって施設に入所した時に、例えば高齢者の認知機能向上のための懐かしの映画上映会みたいなことで、万が一このどちらかを見た時に、私は今朝のこの一コマを思い出すのではないだろうか。
そして何かを語ろうにも、一体どこまでが実体験だったのか、分からないのではないだろうか。
その時に私のひとり語りを聞いている人はAIだろうか。AIならば正確な情報を即座に答えてくれるだろうか。
それとも、 “高齢者の認知機能と情操のためには事実よりも相づちが有用” として、すべての記憶が「はいはい、そうだね。」の言葉の中に吸収されてゆくのかもしれない。
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