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チベット便り014 「死後のヤツ」

ナマステ〜!今日は夏休みの宿題とのコラボでお届けします。近頃私って「死後のヤツ」なのかもしれないなぁ。と思う。ゴッホやアンネみたいに。できればリアルタイムのヤツでお願いする。

夏休みの宿題

自由研究、読書感想文、ポスターなど興味のあるヤツは夢中でやる。後回しにしたヤツは、しっかり者の姉に手伝ってもらい、泣きながら最終日にやる。漢字書き取りは、姉が左手で書いてくれたり。夏休み中の毎日の天気は、近所のヨコサンスーパーが張り出してくれる天気表を写しに行く。手抜きやサボりには昔から手を抜かない。

自由研究 フラワージュース

「涼しい午前中に宿題やっちゃいなさい!」が通用したのは昔の話で、今は早朝でも暑い。赤紫蘇のジュースを作った。煮出し汁にクエン酸かレモン汁や酢を加え、赤色を鮮やかにする。小6の夏の自由研究を思い出した。姉の勧めで、紫キャベツの水溶液を使った物質の性質調べをやった。色が変わるのが楽しくて夢中でやったのを覚えている。飲めたらいいのになぁ。なんて思った。おままごとでは、オシロイ花をすりつぶし、飲めない赤いジュースを作った。オシロイ花は、私には夏のマストアイテムで、タネから白粉を取り出すのはもちろん、花、タネ、葉をさまざまに活用した。黄色や白のレアカラーを見つけて興奮した。オシロイ花の香りは、夏の香り。

赤い飲み物といえば、ヒマラヤで出会ったフラワージュース「ブランシュ」。よく考えたら、作り方が赤紫蘇ジュースと同じだった。

読書感想文

今年は甥や姪の夏休みの宿題が手伝えなくて寂しい。久しぶりに読書感想文を書きたくなった。本を選ぶのも楽しみの一つ。3歳から一人で本を読んで、夏休みは図書館通いの読書家の姉のお勧めは、失敗がなかった。外で遊びまくる私は、弟の世話などしなかったが、2歳しか違わない姉は、弟たちを一緒に図書館に連れて行った。姉の勧めてくれる本は、じっとしているのが不可能な私にも楽しく読めるものばかりで、今でも、すべて覚えている。姉がいなければ、本を読むようなタイプではなかった。想像力が培われ知識が増える。姉と感想を共有するのも楽しみの一つだった。

40人近い読書感想文を読む先生も大変だとも思うが、感想に正解なんてないわけで、自分にはない新鮮で純粋な視点や、独創性に触れるのは楽しそうだ。


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おおえまさのり著「チベット死者の書99の謎」を読んで。

私はインドのチベット人キャンプを訪れ、チベット仏教に触れる機会を得て、「チベット死者の書」に興味を持ちました。長年修行を積んだ僧が記した仏典、しかも生と死という真理が記されている仏典を、昨日今日勉強し始めたへなちょこ生臭坊主の私に理解できるとは思わないので、手始めにこの本を選びました。

おおえまさのり 作家、翻訳者、映像作家。1942年徳島県生まれ。京都学芸大学特修美術学科卒。65〜69年ニューヨークに滞在し映画製作、精神世界に触れ、71〜80年インド、ネパール、バリに学ぶ。チベット仏教の翻訳、紹介に努める一方、精神世界に関する著述に携わる。

私は、生に想いを馳せて、死を想うに至りました。野口晴哉は、「人類誕生以来、死ななかった人は一人もいません。」と言いました。私も死んでいない人は知っていますが、死ななかった人はまわりに一人もいませんでした。

誕生時には母が一緒ですが、死の時は、全くの一人です。そばに人がいたとしても、逝くのは一人でです。誕生と死は一回しか体験できないことですから、不安も恐れも生まれます。死は遺された者にとって悲しく寂しいことですが、忌まわしいことではありません。

科学とは、自然現象を、人間が頭を使って計算などし、数字や言葉で表したものだと思うし、時間がかかる。まず、自然が在るので、奇跡と言われることも、ただの自然現象です。自然現象を、科学的証明がないと信じることができないとはナンセンスだと言わざるを得ませんな。

バルドゥ・トェ・ドル

著者は、1960年代半ば、ニューヨークで「チベット死者の書」を知り、5年後にインド、ネパールを旅してチベット仏教の密教行者やラマ僧に教えを求めました。

1919年アメリカ生まれの英国人人類学者エヴァンツ・ヴェンツが、当時秘境の国であったチベットとの唯一の交易路であったダージリンで買った経典の中に「バルドゥ トェ ドル」があり、1927年に英訳した「チベット死者の書」を出版しました。著者は、カトマンドゥでこの英訳版を手にし、魅了されました。のちに日本語に翻訳し出版します。著者は、チベット死者の書を「死後の世界のガイドブック」だと言い、「死について私たちの多くは何も学ぶことなく死んでいきます。死について教えてくれるところは、ほとんどありません。全ての人が死ぬというのにです。」と疑問を投げかけます。

14世紀、チベット僧カルマ・リンバによってヒマラヤ山中のガムポリ山の岩の間から発見され、8世紀頃、チベット仏教の開祖パドマ・サムバーヴァによって著された経典だと言われています。チベットには、ブッダから伝わった経典のほか、テルマと呼ばれる埋蔵経典があり、ヒマラヤ山中の洞窟などに何百年も埋蔵され、それが必要とされる時が来ると、修行者によって発見されると言います。

河口慧海

この本で河口慧海という日本人初のチベット入国(1900年)を果たした仏教学者であり、探検家を知った。聖地カイラス巡礼も果たしている。調べるととても興味深いエピソードがたくさんあり、知名度の低さが不思議なくらいだった。

耳コピでマントラを覚えるようになり、日本に渡ってきている真言の発声が微妙に違うことに疑問を感じていた。「スワーハー、もしくはスヴァーハー」が「ソワカ」になったり、「フリーフ」が「キリカク」になったり、ここまで音が違うと効果が変わるのでは?と心配になった。プラジュニャーパラミターフリダヤ(ハートスートラ、般若心経)も違いすぎて違和感しかない。調べたところ、インドからダイレクトに伝わったものではなく、中国、韓国を経由して伝わったことと、漢字に当てたためと思われる。(中国と韓国(特に韓国)を経由して伝わると「邪」が強くなる気がする。)

こんな疑問を持つのは私だけと思っていたら、私が生まれるずっと前に、とっくに感じていた人がいた。そして、実際に行動した人がいた。しかも124年前に。

河口慧海 (定治郎)1866.2.26-1945.2.24 仏教学者にして探検家。中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問を覚え、仏陀本来の教えがわかるものを求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典の入手を決意。日本人初チベット入国を果たす。

1886年、京都同志社英学校に入学。中途退学し、大阪にて米人宣教師のもとで学ぶ。1888年、小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、東京市の哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年、黄檗宗の五百羅漢寺で得度し、同寺の住職となる。1892年3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。

1897年6月、神戸港からシンガポール経由でカルカッタへ。ダージリンで出会ったチベット語学者から1年間チベット語を習いながら、チベット入国のルートを調査。ネパールからのルートに決め1899年1月ブッダガヤで、チベット人から法王ダライ・ラマに献上するものを託され、2月カトマンドゥ。ポカラ、ムクテナートを経て北西に進むが国境警備が厳しく進めなくなる。モンゴル人博士が住むロー州ツァーラン村に滞在。5月から翌年3月までチベット仏教や修辞学を学習し、登山の稽古などをして過ごす。中国人と称して行動する。

1900年3月マルパ村へ。6月にチベットに向けて出発。7月4日クン・ラ・パスを越え(近年の調査で、マンゲン・ラ・パスであったと判明)西北限への入境に成功。マナサロワール湖、カイラス巡礼後、1901年3月ラサ到達。セラ寺の大学にチベット人僧として入学。それまでは、中国人と称していたが、寺では中国人と同じ僧舎に入れられ中国人でないことがバレる恐れがあったため、この時はチベット人と称した。たまたま脱臼を治してやったことがきっかけで、患者を診るようになり、ラサにおいて医者として名声が高まる。セーラブ・ギャムツォと名乗っていたが「セライ・ラムチー」(セラの医者)と呼ばれ民衆の間で人気となる。ダライ・ラマ13世に召喚され、侍従医に推薦されるが、修行が本分だと断っている。大蔵大臣の妻を治療した縁で、大臣宅に住み込む。大臣の兄がカンデン寺のチーリンポチェで、この高僧を師として学ぶ。

1902年5月上旬、日本人と判明する恐れが強くなり、ラサを脱出。天和堂という薬屋の中国人夫婦の助けで、集めた仏典などを馬で送る手配を済ませ、5月29日インドへ向けて出発。旅慣れた商人でも許可をもらうのに1週間はかかる5重の関所を3日で抜け、ダージリンに到着。国境を行き来する行商人からラサ滞在時に交際していた人々が次々投獄され責め苦にあっていると聞き、救出のためネパールへ。

1903年3月、待たされはしたものの、交渉の結果ダライ・ラマ宛ての上書をネパール国王を通じて送ってもらうことに成功。その際、ネパール国王から多くの梵語仏典を賜る。4月24日ボンベイ丸に乗船し、5月20日、香港を経由し神戸に到着。6年ぶりの帰国を果たす。

1904年インドへ向け出発。1913年二度目のチベット入国を果たし、1915年帰国。

私は、きっと何年か後にカイラスへ行く。それまでは、遊行を愉しむ。自分のペースでちんたらと行くと決めた。河口慧海が、ネパールで粛々とチベット入国のために言語を学びながらルートを調査した時のように愉しんで機を待つのだ。そして、今私はウッタラカンドにいる。私は行きたいところにしか行かないし、居たいところにしか居ない。

日々、「百聞は一見にしかず。」の実感が繰り返され、

どこかで誰かが言った

「何も信じるな。どこかで読んだことでも、または、誰かが言った事でも、たとえ私が言ったことでも、あなた自身の理性と良識が賛同しない限り、何も信じてはならない。」

という言葉が思い出された。

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