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夏の香りの中に混じるのは

最近、NHKのラジオをよく聞く。

別に意識的にNHKラジオを聞くようにしているわけではない。最近家族が新調してきた、風呂場に置く用のラジオの設定方法がいまいちわからないから、電源をつけて、その時流れているものを聞いているだけなのだ。いや、「いまいちわからない」というのは、嘘だ。チャンネルを回して、好きなラジオ局までたどり着く、という行為すらめんどくさいほどに、めんどくさがり屋なだけだ。

これまでは、NACK5をよく聞いていた。タレントやアーティストの方がゆるく喋る番組を。リスナーと生電話でクイズ対決〜とか、そういうなんでもない、ゆるいお喋り。

NHKラジオは、そうもいかない。「NHKニュース」の時間がある。驚くほどに無味無臭な、ニュースの時間。人間味を感じない、抑揚のない声。

「●●の交差点で交通事故が発生し、1人が死亡、3人が重軽傷を負い、病院で治療を受けています。」「巨人対広島、勝ち投手は●●、負け投手は●●・・・。」

お風呂に浸かりながら、ぼーーーーっと聞いていると、扇情的に放送する民放とは打って変わって、何事もなかったかのように、嬉しいも悲しいも、なんの感情もないような感じで言うんだな、と思う。扇情的な報道は気持ち悪いから好きではないけれど、これはこれで違和感を覚えるのは、なんでだろうか。

このラジオの声を聞いてると、ふと、高校時代の大講堂を思い出した。

私が通っていた高校はとても戦争教育に熱心な学校だった。修学旅行とは別に、広島での実地研修があって、原爆ドームを見学したり、今も生きている被爆者の方に戦争の経験談を聞く、ということもしたりした。今思えば、なんて貴重な経験をしていたのだろうと思う。ただ、高校生の私には、それがなかなか、重かった。

戦争教育の一環で、高校生全員で、戦争にまつわる映画を観た。なんていうタイトルだったかは覚えていない。けれど、私も知っている有名な女優さんが何人かいたのは覚えているから、比較的最近作られたものだったのだろう。

真っ暗の大講堂の中、戦争映画をみた。ずっと悲惨なシーンが続く映画だったわけではないと思う。けれど、なんだか、しんどかった。途中から、寝たふりをしてずっと目を瞑って下を向いていたことを覚えている。まるで今が戦時中なのではないか、恐ろしい思いをしなければいけないのではないか、と錯覚するほどに戦争の音や声や空気にまみれたその時間は、現在の自分が平和な場所で幸せに暮らしていることを忘れまい忘れまい、と、殻を強くさせた。閉じようとした。自分を、守ろうとした。

その映画の時に聞こえた声が、なんとなく、NHKラジオの感情のない声色に似ている。それは、私の中で「逃げた記憶」とつながっている。

学校が用意してくれた戦争に関する教育に真正面から取り組まなかったことに、少しの後悔がある。後悔、という言葉が正しいのかはわからないけれど。それが、多感なあの頃の自分の限界ではあったから。

ただ、そうして「逃げたのかもしれない」「自分を必死に守ろうとしていたのかもしれない」と今でも思う、その記憶が、学校が与えてくれたことのような気もしている。その後悔は、いつまでたっても消えることがないから。どこかで、向きあえる時がきたら、向きあおう、と思えているから。

明日から、8月。夏は、カンカン照りの太陽と、真っ青な空と、汗と、海と、子供たちのはしゃぐ声と。そして少し、戦争の香りがする。

Sae


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Sae
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