どれもホントの自分で、どれもホントの願い事
昨晩、親友とチャット祭りをしていた。
23:30から始まったチャットは、気付けば3:15まで。まるで大学生のような夜更かしになっちゃった。意識高く生活している人からしたら白目向いちゃうくらい無駄に思えるようなことかもしれないけれど、めちゃくちゃ楽しかった。そして、振り返って大量のメッセージのやり取りを見てみると、なんともまぁ、レベルの低いこと、低いこと。笑 公開するとするならば、8割方モザイクが必要なレベル。あぁ、だからこんなに有意義に感じたのね、と思った。
noteには、比較的真面目なことを書いているような気がする。それは自分なりの目的があるから(考えるきっかけの場にしたいとか、フランクに話せないようなことも話せるような環境にしたいとか、伝えたいことがあるとか、いろいろ)だけど、それが自分の全てではない、とも思う。
私はいま、自分を表現する場としてひとつの人格しか持っていないから(裏アカウントとか、別ペンネームとかを持っていない)、このnoteとは全く別の顔をひょっこり出してみたいなと思うときもあったりする。けれど、そんなに器用にできるだろうか、とも思うから、今のところやっていない。
要は、人間の顔って、ひとつじゃないってことだ。こんなに毎日何かしらを言語化して綴っていたとしても、それでも収まりきらない人格も感情も、たっくさんある。書きたいけれど書いていないことも、たっくさんある。
noteに書いていることは、間違いなく本気。でも、私は聖人じゃない。
「heyげんき?」で始まる、超フランクでテキトーで放送禁止用語爆裂な言葉を交わしあうチャットも、本当の自分。
どっちかだけじゃ、生きていけない。品のないことや悪口を言っている自分も、「言葉の美しさがとっても好き」と思う自分も、全部本当なのだ。
それって併存するの?するのよ、これが。
今日は、七夕らしい。
朝起きてTwitterをみていたら川谷絵音さんの願い事が流れてきて、今日が七夕であることに気が付いた。くすっと笑ってしまう。
私の願い事は、なんだろな。
うそ、ほんとは「なんだろな」なんて考えなくたって、毎日のように、思ってる。
ちなみに、私の他の顔は、ちゃんと別のお願い事を持っている。書かないけど。とってもくだらないことから、とっても真面目なものまで。でもどれも、本気。
そういえば、ふと「七夕の願い事って誰が叶えるんだろう?」と思って少し調べてみたら、どうやら「七夕の神様」なんて、いないらしい。七夕の願い事は、「叶えてやるぞ!」という、願掛けなんだって。
そうか、願掛けか。
うん、叶えてみせるぞ、どの願い事も。
Sae