#50「あれから1年 〜高・自己評価 vs 低・自己肯定感〜」
2023年2月11日
現在Netflixで配信されている『LIGHTHOUSE』の公開収録に参加した。
はやいもので、あれから1年が経つ。
ありふれた言葉だが、そこは魔法に包まれているような空間だった。
収録直後は、会場がある池袋からしばらく立ち去ることができず、余韻に浸りながらうろうろしていた。
気づいたら会場の方に足が向かっていて、会場の入り口に戻った瞬間偶然にも会場を後にする若林さんを見かけた。
声をかけるのは違う気がして、車に乗り込むのを静かに見守らせてもらった。
「こんな幸運に恵まれること二度とないだろうな」
そう思いながら、その後数日間はずっとふわふわしていた。
焦り
あれからの1年はあっという間だった。
「大人になってからの1年は早く感じる」
子どもの頃周りの大人たちがそう言っているのを聴いて、少しそれがうらやましかった記憶がある。
でも今は違う。
魔法のようなときから1年が経って、社会人も2年目を終わろうとしている。
この2年、自分が何を成し遂げられたのだろうか。
きっと、周りの大人たちは「2年目なんてそんなに焦るほどではない」というようなことを言ってくれるだろうが、正直もっとやれると思っていた自分がいて、何に対してなのかはわからないが「焦り」を感じている。
個人的な話になるが、もともとやりたかったことを諦め、会社は変わらなくともかなり角度の違うことに挑戦し始めた。
社内でも規模が小さく、市場的にもこれから大きく成長すると言われているが、そこでどう戦っていけばいいのか誰もわかってはいない。
そんな中で、まずは自分がやってみたいことを探しつつ、新たなことを生み出していくためのアクションを起こしていかなければならない。
ノウハウが蓄積され、慣例が出来上がっているところで揉まれるよりかは、自分で新しい道を開拓していく方が自分には合っているのだと思うが、そう簡単には調子よく前に進めない。
高・自己評価
そんな環境に身を置いているが、一企業である以上売上を気にしなければならず、本来自分たちがやるべきこととは離れた仕事も引き受けてこなしていかなければならない。
そのため、新しい道を開拓していく余裕もなく、そのことに対して個人的な焦りと会社に対する不満を感じている。
それならばと思って、最初は業務外の時間で自主的に勉強しようとしていたが、モチベーションを保てなくて、当初の熱量は消えてしまった。
ただ、求められるからには必死に新しいことを吸収していくし、自分がもともと持ち合わせているものは、捻り出してでも掛け合わせて、新しい価値の創造につなげているつもりだ。
お声がかかって取り組み始めた新規事業開発も、入社2年目にしては喰らいついてもうすぐモノになろうとしている。
と、ここまで読んでいただいて大体わかると思うが、私はかなり自分への評価が高い。
些細なことを棚に上げているつもりはなく、周囲と比較したときに同世代の平均よりは少し上をいけているのではないかという、自分なりの根拠をもとに自己評価をしているつもり。
そもそも社内でも理解されない分野で密かに活動している我々は、比較対象がいない。だから、自分が頑張っていることを評価してくれている人は果たしているのか。よくわからなくなる。
もうちょっとやれる気もするし、手探りなりにいろいろと成し遂げられている気もする。自分で自分を評価することで、この迷いを消し去らなければならない。
その結果の「高・自己評価」なのだろう。
昔からきっと、自分に自信がないが故の、自分を誤魔化すための性格なのだろう。
低・自己肯定感
それでいうと、「自己肯定感」は恐ろしく低い。
周囲の同世代と比べて、自分に足りないものを見つけ出しては落ち込む。
週末に街へ出かけようものなら、視界に入ってくる若者全てが自分より充実した人間に見えて、自己嫌悪に陥る。
それならばどこへも出かけなければいいのに、
映画館に行ったり、本屋に行ったり、結局同じような週末を過ごして、そんな自分を俯瞰で見て毎週のように絶望する。
それが嫌で、たまに入る休日出勤要請は喜んで受け入れ、仕事の忙しさで自己肯定感の低さを埋めようとする。いや、感じないように誤魔化している。
自分が主役の世界に
クラスの問題児は先生が厳しく指導すれば、多少なりともまともになるが、社会ではそうはいかない。
仕事内容と労働時間に頭を悩ませていた1年ほど前とは異なり、ストレスになることといえば人間関係なのかもしれない。
自分に直接的な被害が及んで困っているというよりかは、どうしようもない問題児に頭を悩ませている人たちの痛みが伝染してきて、余計な心配とストレスを感じていると言った方が正しい。
ここでいう「問題児」に対して、社会では上に立つものであっても、それを注意するようなことを言えないのが現代の課題だと思う。
だからこそ、その問題児たちは自分が周囲から後ろ指を刺されていることにも気づかないし、全て自分ありきで世の中が動いているとでも勘違いしているのだろう。
そうした社会における問題児はお気楽でいいなとは思うが、決してうらやましくはない。そうなってしまったら、自分が人間でいられなくなるような気がして怖くもある。
ただ、そろそろ自分が主役になれるようないい出来事が起きてもいいのではないかと思う。
決して他力本願ではなく、ラッキーでもなく、自分がある程度努力した先で得られる達成感が欲しい。
そのために、常にがむしゃらにもがき続けることは人間無理なのもわかっている。
それならば、ここで力を入れればその先がひらけてくるという分岐点を知らせてくれることはないのだろうか。
知らせてくれなくとも、それを感知できる特殊能力が身につけられないだろうか。
2人が主役の東京ドームへ
「オードリーのオールナイトニッポン in東京ドーム」が数日後に控えている。
開催が発表されてから、宣伝のためのさまざまな施策やグッズ、コラボイベントなどが行われてきた。
当初東京ドームが埋まらないのではないかと心配していた、オードリーの2人や番組チームを勇気づけようと、宣伝Tシャツを着たりステッカーを貼ったりするリトルトゥースたちの熱量は凄まじかった。
仕事柄、エンタメにおけるファンの熱気を冷静に分析する癖がある。
先日もある男性グループのライブに招待されて見に行った時、少し度が過ぎるのではないかと思うほどの、奇声にも似た歓声にくらってしまった。
その時、きっと今度の東京ドームではこんなことはないのだろうなと、少し安心感と期待を抱いてしまった。
2人が登場した瞬間、クスクスと笑う客席であって欲しいなと思った。
何が言いたかったかというと、これまでのライブまでの一連の盛り上がりも、今度のライブ本番も、あくまで主役はオードリーの2人。
グッズのユニフォームの背番号3は、「3人目のオードリー」という意味合いもあるかもしれないが、リトルトゥースは決して主役ではない。
それを肝に銘じて、客席からいつものラジオ聴いているように、まずは1人で全身に浴びる。周りにいるお客さんは、波の数がたまたま合うだけ。
ライブが終わった後の自分がどうなってしまうのか、次なる楽しみを何か見出さなければ生きる活力を失ってしまうのではないか。
そんな心配とは裏腹に、今日もグッズのトレーナーを身につけて仕事へと向かうのであった。
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2024.02.16 作成