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あなたの言葉は、あなた自身を映す鏡

何人かが輪になって座っているところを思い浮かべてみてください。その真ん中に、りんごが1つ置いてあったとします。

そのりんごについて、ひとりずつ思い浮かんだことを述べていくとしたら、どんな言葉が出てくるでしょうか。

「このりんごは 『ふじ』だね」
「このりんご、 いくらだったんだろう?」
「そういえば青りんごって、青くないのになんで青りんごっていうんだろうね」
「白雪姫の毒りんごはどうやってつくったんだろう」
「私、りんごアレルギーなんだよね」
「小学生の頃、りんご皮むき大会で1位をとったことあるよ」

同じりんごを見たとしても、思い浮かぶ事柄は十人十色、全員バラバラ。

ただし、1つだけ全員に共通していることがあります。

それは、りんごを題材にしながらも、結局みんな「自分のこと」を話しているということ。

つまり、あるニュース、ある事柄、ある一冊の本、ある文章、ある言葉に対して「私はこう思う」という発言、文章はすべて、その対象のことについて語っているように見えて、「自分はこういう人間ですよ」と発言していることになる。

……え、当たり前じゃん!

そう思う方もいるかもしれませんが、よくよく考えるとこれってすごいことだと思いませんか?

「ある対象」について話しているのに、何気に「自分」が丸裸ってことですから!

これ、すごいことだと思いません?(2回目)


言葉はすべて「自分フィルター」を通して表に出る

ふだんは無自覚でいる人が多いと思いますが、どんな物事も、人は「自分フィルター」を通してしか受け取ることができません。

だからこそ、1つの物事について何人かで感想や意見を述べるときは、その人ならではの視点が鮮やかに浮かび上がってくる。

読書会がおもしろいのも、1冊の本(と他人)が鏡のように自分自身を映してくれるからなんだろうなって思います。

このりんごのたとえ話には、もうひとつの示唆があります。

慎重に選び抜いたりんごをどんなに配慮して置いたとしても、それを見た人たちが持つ感想までは意図的に操作することはできない、ということです。

つまり、発信者がどんな思いで、どんな意図で、その言葉、その意見を言ったり書いたりしても、受け取る人によって解釈は違うのだから、あれこれ心配しても仕方がないということ。

受け取る人がどんなフィルターを持っているかなんて、発信者は知るよしもありません。

もちろん、明らかに人を傷つける可能性がある発言や表現は避けたほうがいいと思いますが、必要以上に配慮したとて、自分の力の及ぶ範囲なんてタカが知れています。

「だからこそ必要以上に気にするな」

ともいえるし、

「だからこそ言葉って恐ろしいよね」

ともいえるし、

「だからこそ定義づけが大事だよね」

ともいえる。

言葉に大きな力が宿るとき

逆に、ひとつの「言葉」をきちんとかっちり定義して、一律のイメージを与えることができたとき。

つまり、その言葉を聞いたり見たりすると、だいたいの人が同じイメージを共有することができたとき。

その言葉には良くも悪くもすごい力が宿るんだろうなと思います。

それがみんなを元気づけたり勇気づけたりするイメージとして共有されるのであれば、社会をより良い方向に動かす大きな力となるだろうし。

それが倫理的に良いとはいえないけれど、強い求心力を持ってしまった場合、恐ろしいことになるよなぁと思ったり(歴史にその答えあり)。

編集の仕事とは、概念を言葉でしっかり定義づけて、その言葉に力を与えることでもあります。

その力が、可能な限り人の身体や心を前に動かす力として作用することを願いながら、影武者としてコンテンツを世に送り出すわけです。

ただ、そう願っても必ずしもその通りになるとは限らないし、むしろ逆の方向に作用してしまうこともある。

あらかじめ、そう自覚しておくことが大切だと私は思っています。

私の中にある、言葉の力を讃える気持ちと、言葉の力を畏れる気持ちと、言葉の力に対する無力感・どうしようもなさが、何となく皆さんに伝わったらいいなと思って書いてみました。

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