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吃音の苦しみを見つめて生きてきた話


俺は物心ついた頃にはすでに吃音だったと思う。
いわゆる「どもる=吃る」というものだ。

膝をすりむいて保健室に行き、先生に「何して怪我したの?」と聞かれ、言葉が出ずに「え、え、」となっていると「え、え、じゃなくて!」と食い気味の叱責を食らう。これがどれだけ辛く苦しい出来事なのかは、吃音を抱える当事者にしかわからない。

更にそれは、日常生活の中で数えきれないほど何度も繰り返される。俺たちにとって言葉が出てこないなんてことは、日が昇るよりも当たり前に起きることだからだ。

(※約6,300字あります)



吃音とは


吃音(きつおん、英: stuttering,stammering)とは、言葉が円滑に話せない、スムーズに言葉が出てこないこと。非流暢発話状態のひとつ。
構音障害・言い淀みなどとは区別されるが、合併する場合もある。

吃音には、幼児期から始まる発達性吃音と、発達性吃音のなかった人に脳の疾病や精神的・心理的な問題によって引き起こる獲得性吃音がある。

「発語時に言葉が連続して発せられる(連発)」、「瞬間あるいは一時的に無音状態が続く(難発)」「語頭を伸ばして発音してしまう(延発)」などの症状を示す。

Wikipedia「吃音症」より引用


こういった説明文を読んだだけでは、吃音のことはほぼ全く理解ができないと思ってほしい。これはあくまでも症状を言語化しただけに過ぎないからだ。本体は症状ではなく、苦しみのほうだ。

当事者としての主観ではあるけれど、吃音による苦悩の本質は、症状としての「発話が完遂されない不便さ」ではなく、吃音を伴いながら送る生活上での他人からの視線、嘲笑、コミュニケーション不全、定型行動の未完遂などによる社会的フラストレーションにあると思う。


吃音の苦しみとは



世の中は「普通に喋ることができる」をあまりにも当たり前のこととしてルールを設けているが、俺たちはそれができないのに基本的には吃音だけでは障碍者にはなれないという事実がある。

なので、綺麗な形をしている他の人たちと同じ社会のパズルの箱に入ることになり、そのせいで自分が歪なピースであることを何度も何度も強制的に自覚させられて生きることになる。そういう類の、いわばソーシャルな苦しみの面が非常に強い。

たとえば接客業のアルバイトで「ありがとうございました」と言わなければならないシーンで、最初の一文字が詰まったように出てこない。こういったシーンは、発話できないことそのものよりも、業務を完遂できない自分の存在を自覚することに強い苦しみを覚えるという話だ。


また、やはり何といっても笑われる。これは他の苦しみと複合して常に付いて回ることが多いのも厄介だ。

先天的に声帯が機能しなくて手話や筆談しか使えない人は、吃音症と同様に発話は完遂されないけれども、その様を「滑稽だ」と思う人は現代ではほとんどいないと思う。

それに比べて「吃る」という有様は、まだ人々にとって滑稽そのものらしく、俺たちは吃ることを笑われたり、不思議がられたり、馬鹿にされたり、誤解されたりして、何度も心に傷を負いながらそれを実感してきた。

特に子供同士なんかだと残酷さは顕著で、子供の頃に友達に吃音をいじられて嫌な気持ちになったことがないなんて人は、吃音当事者には存在しないと思う。学校の先生も吃音症のことを理解してないことが多いので、授業の音読の時間は死刑執行タイム。ただの地獄でしかなかった。(あれはマジで無くすべき)


そして物珍しさ。これは吃音症の認知度そのものにも影響していて、珍しいから知らないし、知らないから理解できないし、理解できないから笑ってしまう。

もしも世の人々の半分くらいが吃音だったら、吃音の苦しみはせいぜい「近視」程度の、不便さに焦点が当たったものになったのではないかと俺は思う。どう見ても五体満足の人間が、喋り始めた瞬間におかしくなるということが「物珍しい」からこそ、苦しむことになっているんだなと。


症状の存在や内容を知る人は時代と共に少しずつ増えてはきたけど、当事者以外の理解が全く及ばない現状というのは今もまだ続いている。(これは嘆きではなく、仕方がないこととして今は受け入れている。俺自身も戦争のある国のこととかわからないしね)

言葉が出ない俺たちに対して、周囲の人間は「落ち着いて」だの「緊張しないで」だのという言葉を投げかけてくるが、そんなんで言葉が出てくるなら誰も苦労はしない

吃音症という発話障害を抱えていない人の心理状態によって起きる「吃り」と、吃音症によって引き起こされている「吃り」は全く別のものであって、それらが同じ「吃る」というワードで表現されていることが本来おかしいのだと俺は思う。もしもこの日本語表現が分けられていたら、俺たちの傷はもう少し浅かったはずだ。


たとえばの話だけど、ご飯を食べているとする。箸で食材を掴んで口に運び、咀嚼して飲み込む。生活の中の当たり前の動作だ。

それが度々、理由はわからないが突然箸が手からポロっと零れ落ち、持てなくなる。不注意だったり手から力を抜いてしまったりしたわけではなく、ただただ何故か持てなくなるという状態に陥る。

吃音で言葉が詰まるというのは、それと同じことだ。

そして厄介なことに「箸を落とさずに食事を終えること」も度々起きるので、不注意でよく箸を落とす人と見分けがつかない。そうなると「ポロポロ箸を落とすな!」と怒られたり、落ち着きのない人だと思われて笑われたりする。(この辺は発達障害者あたりにも共感してもらえると思う)

これが先述したソーシャルな苦しみに繋がってくるという流れだ。もしも明らかに体に疾患を抱えていて、常に箸が持てないのなら、怒られることも笑われることもない。吃音症当事者は、区分的に健常者であるゆえの苦しみを味わっている。

あと、実は言葉が出てこないときは普通に肉体的にも苦しい。息が止まっているような感覚になる。

吃音は最初の文字を繰り返してしまう「連発型」と、最初の文字が出てこない「難発型」「延発型」があって、複合することも多々あるんだけど、どれも言葉が出てこない時間はかなり息苦しい。その苦しみを味わっている当事者ならわかると思うんだけど、これだけ苦しくて何故吃音で障碍者手帳が取れないのかが不思議なレベルで苦しい。


さて、吃音症の当事者の身に何が起きていて何が苦しいのか、大体わかっていただけただろうか。

吃音症になってしまう原因についてなど、詳しい話は調べたらいくらでも出てくるので、興味のある人は是非調べてみてほしい。

ここからは俺自身が吃音とどう向き合ってきたかと、今どうなっているかの話。こっちが本題だ。

本題前の静岡市の夜景
山と街が混ざり合う夜景は美しい



社会に出てからいつの間にか治ってた



まず現状の自分。中学生~22歳くらいの最も酷かった時期に比べると、信じられないくらい治ってきている。

俺は基本的に難発型で、酷かった時期は延発型が併発していて喋り始める前に「ん"〜」と喉から声が出てしまったり、あ行・ら行から始まる言葉は全部出なかった。挨拶は、おはようございます、お疲れ様です、お先に失礼します、ありがとうございます、とほぼ全滅だ。

今でもたまに「あ、吃音きた」と思うような言葉が出ないタイミングは来るんだけど、1秒後には出てる。


吃音症は肉体の発育の過程で一時的に通るみたいな形で発現するケースも多いらしく、数年間だけなっていたという人もいたりする。

俺がもしかしたら、その「一時的」が「ありえないくらい長かっただけ」という説もあるんだけど、ほとんど気にならなくなった28歳くらいのときって、そもそも吃音に対する向き合い方が変わって大分経っていたと思う。

俺にとっては、今のように症状として吃らなくなったことよりも、向き合い方が変わったことのほうが明らかに大きかった。


ずっと「吃らないようにしよう」と思っていた



ある特定の文字が苦手だったり、シーンが苦手だったり、とても緊張しているときは何故かスラスラ喋れたり、リラックスしすぎて何も考えずに喋れる相手にだけ吃音が酷くなったり、モノマネをするときや英語を話すときは吃らなかったりと、症状を追いかけて「吃らないこと」を再現しようとしていたときには、色んなことに気が付いた。

喋る機会を少なくしようと思って文章を書くことを頑張っていたおかげで、それも少し上手くなった。

だけど、吃るときはどうしても吃ってしまうので結局100%の回避は不可能だった。多分俺は、諦めるまでの20と数年間で、吃音に対しての全ての手を打ち切ったと思う。それくらい頑張っても無理だった。

そんなある日。会社で鳴った電話を真っ先に取らなければいけない若手の立場だった頃のこと。電話を取っていつものように言葉に詰まってしまったとき、俺の中で何かがプツンと切れた。


「なんかもういいや」


俺はフロアに響き渡るくらいの大きな声で、上司に「俺吃音あるんで、電話マジ無理なんで、もう取りません、後はお願いしゃーす」といった内容の説明を適当にして、以降二度と電話を取らなかった。当然揉めたけど、固辞して押し通した。


当時はまだ今程度にも及ばないほどに吃音症の認知度は低かったんだけど、俺は性格が悪かったので「知ってる知らないで扱いが変わるような知識の話なら、知らねぇ奴がバカなんだよ」と傲慢に割り切ることにしてしまったんだよね。

そりゃそうだろって。色盲の人にカラーデザインの仕事やらせるか?耳が聞こえない人をコールセンターで働かせるか?って。吃音症っていう発話障害を抱えている人がいるってことを、知ってるか知らないかっていう点で話がまとまるんなら、お前が調べて、知って、俺のステージまで上がって来いよと。何事も知らないより知ってるほうが上だぞと。なんなら俺が教えてやってもいいぞと。

そんな考え方が良いか悪いかは別として、そう思って「吃りますけど何か?」って態度を堂々と取れるようになってからは、本当に吃ることを気にしなくなった。俺が吃音の苦しみから解放されたのは、吃らなくなったからじゃなくて、気にしなくなったからだった。


昔と違って周りも子供じゃないから、あからさまに笑ったりバカにしたりする人はいなくなっていたし、それゆえに自分が吃音症であると説明すること自体にも大きな意味が生まれた。そういうものがあると知っている人間の前で吃ってしまうことは、思ったよりも恥ずかしくなかったからだ。

同僚には俺が吃音症であることは全部共有して、プレゼンで言葉に詰まったときもフォローしてもらえるように動いた。代わりに喋ってもらった後は「すみませんね。僕が吃音症でたまに言葉出ないんで、今フォローしてもらいました」って、敢えてその場で全部言っちゃったりね。教えてやんないとわかんないでしょ、皆知らないんだから、って。そのくらい強気なスタンスで生きてた。

周囲からフォローしてもらえる機会が増えてきたら、逆に俺ができることでフォローし返したり、お礼することを絶対に欠かさないようにしてたんだけど、そうやっていく中で気付いたんだよね。「持ちつ持たれつ」や「適材適所」ってこういうことだなって。そしてそれが社会なんだなって。

たとえばさ、集合写真を撮るときって後ろの人の顔が写るように、前の列はしゃがんで、真ん中の列は中腰になるでしょ。あの程度の単純なシステムと大差ないんだよね、社会との関わりって。知ってる人が屈むだけ。

さっきは「綺麗な形をした他の人たちと同じ箱に入れられて」って言ったけども、他の人たちも決して完璧なピースではなかったんだよね。だから相手に吃音を理由に屈んでもらうことがあって、俺も相手の何かのために屈むことがある。全部その繰り返し。全部お互い様。

そう思ったときくらいから、吃音の苦しみを特別視することをやめた。これは実はもっとシンプルな苦しみだったんだって思えるようになったから。


症状の苦しみよりもソーシャルな苦しみを感じる筋道を先に潰した


今になって振り返れば過程をそう言語化できるけど、当時は考えてそうしたわけじゃない。

俺が吃音で苦しかったのは、吃音によって役割が遂行できないことや、笑われたりバカにされたりすることや、誤解から叱責されることだった。だから、吃ってもそうならないような状況を作ればよかっただけなんだよね。大人になると努力次第でそれができるってことに気付いた。

そんな風にソーシャルな苦しみを潰し切ってストレスを感じなくなったら、理由はわからないけど吃音自体も全然起きなくなってた。今「俺って吃音があって」って言うと驚かれることもある。それくらいあからさまに改善された。

イップスとかと同じで、やっぱり自覚がなくても心因的に引き起こされているというケースがあるんだと思う。まぁ神経系の問題であるケースもあるようで、一概に「これが原因でこうすれば治る」というものは決して存在しないんだけどね。

今はもう昔ほど言葉が出なくなることをイメージすらできない。そんな状態だ。


吃音は「ソーシャルな苦しみ」である


冒頭のほうで「吃音の本体は苦しみで、苦しみの本質は症状由来ではなくソーシャル由来」と述べたのは、俺の願望も含まれてる。

何故なら、そうであれば立ち向かう手段があるということになるから。実際に俺がそうしたようにね。

だってそうでしょ。
吃りたくないんじゃなくて、苦しみたくないんだよ。

これも先に書いたけど、世の中の半分くらいの人が吃音だったら、恥ずかしくないから全然苦しくないのかもって。つまり症状はあくまでも引き金であって、俺たちはそれに苦しんでいたわけじゃない。

もちろんスラスラ喋りたいっていう欲求はあるけど、出来ないことを諦めるっていう経験は、勉強だのスポーツだので既に他にもしてきたはずなんだよね。俺たちはどうにかしてそこに「吃らずに喋る」を並べることが必要なんだと思う。

紀元前の中国戦国時代に「韓非」という優れた法家がいたんだけど、彼は重度の吃音だったという話がある。つまり、吃音はここ100年200年で見つかったものじゃなくて、それほど昔から確認されているのに、人間のこの長い歴史の間で「治す方法」は未だに見つかっていないということ。

俺はそれを知って「症状を治すことに向き合う」のはきっと時間の無駄なんだなと結論付けた。もちろんそこへのアプローチにあたる研究を続けている人たちのことは尊敬しているし、心から強く応援しているけど、当事者としてできることは他にあるんだってのが俺が堂々と言える1つの答えになる。

もしも視聴率100%の番組で俺が喋れる機会があったら、絶対にこの話をしたいね。それくらい、当事者にもそれ以外の人にも、皆に知ってほしい話だよ。


吃音に苦しむ人へ


今、自分が人生のどの位置にいるのかで出来ることは変わってくる。まだ学生なら、周囲が子供すぎるせいで苦しみは終わらないかもしれない。

だけど、苦しみはいずれ自分の手で終わらせることができる。全然いける。それだけは言いたいんだよね。

もちろん、治すための手立ては色々と前向きに試してみてほしい。ちなみに俺がすごく効果があったのは「話すスピードをうんとゆっくりにすること」だったんだけど、意外と自分が早口で喋ってることって気付かないんだよね。

さっきモノマネをしてるときは何故か吃らないって書いたんだけど、話すスピードを変えるっていう行為はそれにかなり近いものがある。

たとえばYouTubeで「この人の喋り方聞き取りやすいな」って思う人の喋りを同じスピードで復唱してみると、普段の自分の話す速さとの差異でちょっと「演じてる感覚」になって何故か吃らずに喋れる。それを自分のスピードとして自分自身に植え直すイメージだ。

でも、そうやって色々試すにしても、最悪治らなくてもいいって割り切れるようになって欲しいんだよね。自分が苦しみから解放されたプロセスを、同じように辿れる人が他にもいるんじゃないかって俺は思ってるから。

吃音は治ってないけど幸せって思えること、それが確実に辿り着ける、目指すべきゴール。今の俺はそう思ってる。吃音の改善が、その後からついてくることもあるから。

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