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「本当に頭が良い人は誰にでもわかるように説明ができる」について考えた話


「本当に頭が良い人は誰にでもわかるように説明できる」という言説を、誰しも一度は耳にしたことがあると思う。

これは昔からネットでも度々話題に挙がるテーマで、俺自身も何度か考えてみたことはあるんだけど、考えれば考えるほど「賛成派でもあり、反対派でもある」という状態に落ち着いていった。

俺自身はそこの白黒をつけようとは思っていなくて、頭の良い人って色々いるなぁと思うに留まっているんだけど、そんな中で1つだけ、これだけは確かだと感じていることがある。

本記事では、そんなテーマについて考えたことを主観満載で述べていこうと思う。めちゃくちゃ勝手なことばかり言うけど、それは許して欲しい。

はじめに前提となる事実を2つ、その後に俺の勝手な分析と結論を書いていく。

(※よくこの話になると「知性の有無」「知能の高低」という概念を持ち出して「バカにはわからない」と言ってるだけの結論を語る人がいるけど、俺はあれ好きじゃないです。そういう話はしません)



▶事実その①「説明が上手い人は『説明が上手い人』である」



まず、主張の中で「本当に頭の良い人」とイコールで結ばれてしまう「説明が上手い人」は、あくまでも「説明が上手い人」であるという点を動かない事実とするべきだと思う。

なぜ誰にでもわかるように説明できるのかという理由は様々なので、その中の1つに「頭が良いから」というざっくりとした理由も一応存在してはいる。

ただ、人に伝わるように説明するということが「鍛錬によって上達するスキル」であるという認識を持っているのなら、この2つはちゃんと切り分けるべきだと考えられるはず。

たとえば、運動神経抜群の野球未経験者と、運動神経は人並だけど野球歴は10年の経験者がいたとする。

これって、後から逆転することは当然あっても、現時点では絶対後者のほうが野球上手いんだよね。この二者が競技をしている姿をそれぞれ映して見たとしたら、後者のほうが運動神経そのものが良いように見えると思う。

それと同じで、他人にわかりやすく説明する、しなければならないという環境で経験を積んできた人は、当然のように説明が上手になっている。物事のコツを掴むのが上手い人は短い時間で上達する傾向にはあるだろうけど、とかく「スキルが身についている状態を見ただけ」では、才能(=頭の良さ)だけが理由だとは判断できないということだね。

更に言えば単純に性格も関係すると思っていて、わかりやすく説明したいと思うかどうかはその人次第になってくる。好きこそものの上手なれと言うけど、性格によってそこに重きを置く人はやっぱり上手な説明ができるようになりやすいよね。

まぁこの2つは単純なイコールではないよってのは事実だろうなと。


▶事実その②「頭が良いの定義がそもそも曖昧」



また例え話になるんだけど、仮に以下の二者がいたとする。

Aさん … 人間以外の生物はゾウとクジラしか見たことがない
Bさん … 人間以外の生物はカエルとチワワしか見たことがない

さて、AさんとBさんの「生物界における人間の大きさに対する認識」は、果たして同じだろうか?

答えはNoだよね。Aさんにとっての人間は一番小さい生物で、Bさんにとっては一番大きな生物なんだから。さっきの野球経験者のたとえでも、プロ野球選手がそこに混じれば、10年の野球経験者も下手に見えるはず。

そういったことが「頭の良さという定義」に対しても大いに働いていると考えるべきだと思うんだよね。

自分が思い浮かべる「頭の良い人」が、わからないことを上手く説明してくれる人なのか、前人未踏の研究結果を出せるような人なのか、学校で成績が1位の人なのか、歩んでいる人生によってそれぞれ違うわけだ。

これはそんな風に1つ1つ挙げていったらキリがないほど無数に存在していて、そうなると多数決を取ることはできても画一的な定義を決めることはどうしても難しくなる。

俺自身、昔はこのテーマに対して賛成派の立場だったんだけど、今はそうではなくなっている。自分の思う「頭の良さ」の定義が変わったからだ。各々が頭の中に設けた定義なんてものは、まぁ使えないということだね。

このテーマについてちゃんと考えたことがある人は、これら2つの事実は抑えていると思う。今更感のある話だったかもしれない。純粋に「真か偽か」で考えてみると、どうしてもここにぶつかることになるので。

「じゃあこの話って一体なんなんだよ」と思って色々と考えることになったってのが本記事の主題になる。


▶分析その①「あるはずの根拠が機能しない理由」


とはいえ、学歴(偏差値)だとかIQだとか、絶対的に使えそうな指標は存在している。俺は「頭の良さ」を語るにあたってこの2つは切り離せないものだと思うし、ひとつの根拠として当然使えると思っている。

ただ、それでは決着しない。というより、決着しないことこそが本テーマの肝だ。

本テーマの肝は、頭の良さと説明の上手さの相関性の真偽ではなく、何故そういった主張に無視できないほどの一定の支持があるのかという点だと俺は思う。

そういった視点から、何故それらの指標が強く機能しないのかということを考えてみると、ちゃんと理由があることがわかる。

それは、結局のところ本テーマは「頭の良さの実態」の話ではなく「知性の見え方や感じ方」という「人間が受ける印象」の話であるということだ。

先に言った通り、これは多くの人が何故かそう思ってしまう、つまり「現象」の話で、ほとんど「あるあるネタ」に近いものなんだよね。

この主張をする人がある仮説を元に「頭の良さとは」を説きに来ているという話ではないので、知能・知性の「実態」が主軸にある反論は全て空を掴むことになる。

勉強を頑張ってきた人なら、たとえば自分がめちゃくちゃ勉強を頑張ったのに成績でどうしても抜けない相手のことを「俺よりも頭が良い奴」と思わざるをえない経験をしたこともあるだろう。努力して入った大学で、偏差値は同じくらいのはずなのに明らかに自分よりも「ソツがない」人を見かければ、あいつのほうが頭良いのかもしれないと思ったりもするだろう。

そういった「実態の差」を実感するケースを挙げ続けて「頭の良さとは」を語れば、それについての正解には近づけるのかもしれない。だけど、本テーマはそういう話じゃない。

だから実際に指標に使えそうな根拠は、ここでは印象を補正するための材料としてしか機能していない。東大卒の人の説明が上手ければ「さすが東大」になるし、下手であれば「勉強してきただけで頭はそんなに良くない」と、勝手に思うための材料にしかならないんだよね。

かくいう俺自身も、たとえば目の前の人が自分には到底理解のできない会話を繰り広げてきたとき、相手が何者でもない場合とアインシュタインと同じIQであると知らされていた場合とでは、受ける印象はだいぶ変わると思う。

元より本テーマはそういう話であるというのが俺の見解だ。


▶分析その②「最も濃い共通項。多数決の勝者」


さて、本テーマが印象の話であるならば、事実その②で述べた「各々が持っている頭の良さの定義」も、大いに印象の話である可能性が高くなると思えないかな。

マジョリティと言えそうなくらい支持のある言説ってことは、多くの人がその「頭の良さの定義」の中に「説明が上手い」を入れているということになる。

先ほど多数決なら取れると言ったけど、要は「頭が良さそうな人ランキング」を多数決で決めたときの勝者が「誰にでもわかるように説明できる人」になっているからこそ、本テーマは議論の種たりえるのかなと。

そこから、説明が上手い人のことを頭が良いと思いやすい理由を考えてみたんだけど、説明が上手い人は「相手に対して『教わるという経験』を与えられる人間だから」だと思う。

人が誰かのことを「頭が良い」と思うにはいくつかの条件やパターンがあって、パターンとして「相手のほうが上位だと認識したとき(無意識下を含む)」というものがあるんじゃないかな。

「教える立場と教わる立場」という状況は、いわゆる「上位と下位の立場」なんだよね。偉いとかじゃなくて、有る者から無い者への伝承という点で。

教える側がわかりやすく説明して理解できた場合には「その人に教わった」と素直に思えるし、説明がヘタクソで理解できなかった場合には「わからなかった」と思うしかなくなる。前者の場合はすんなりと「相手が上位である」と認識できるのに対して、後者は「教わった」と思えないせいで認識するタイミングを逸してしまってるんだよね。相手に知性を感じる時間が生まれるかどうかもそこで分かれてくると思う。

つまり「教わる」の成立の可否。その差が、印象の明暗をあまりにも分けすぎてしまうんじゃないかと。

教えてくれる人の説明がわかりにくかった場合って、そのあと自分で考えるしかなくなるでしょ。そしたらその先の理解した時点での感触は「自分で理解した」になると思う。フォーカスが自分にある状態だ。

相手については「ヘタクソな説明をしてきた」という印象で止まっちゃうんだよね。もしかしたら、自分に教えてくれたその相手は、別の誰かからもっとわかりづらい説明をされても一瞬で全てを理解できた天才かもしれないのに。

わからないことを教わるという経験って、生きている人間全員が積むよね。つまり、その感触の差は全員が語れるものになる。よって、多数決で有利になる。

他人に知性を感じた瞬間として「実際に頭の良い人に誰にでもわかるような上手い説明をしてもらった」という経験が単純に全体で最も多くて、対比として「よくわからない説明をされた」という経験もかなり多い。

俺はそういった実態が、このテーマの裏に強くそびえ立っている柱なのだと思っている。

次が最後、俺が見つけた答えの話。

テーマの肝が「受ける印象の話」であって、仕組みには「教わるの成立の可否」が作用していて、背景には「経験の多数決」があるとする。

そんな中で人々が「本当に頭が良い人は誰にでもわかるように説明ができる」と言いたがってしまう現象が起きるのは、それらをある「1つのモノ」が結ぶからだと俺は思う。


▶答え

「人は、わかりやすく説明してくれる人のことが、めっちゃ好き」


これですね。人は「誰にでもわかりやすく説明できる人」のことが、とにかく大好き。
めっちゃ好き。ありえん好きなんですよ。

わかりやすい説明と、それができる人のことが大好きだから「頭が良い!」「すごい!」と褒めたくなっちゃうんです。

この「大好き」に尾ひれがついて「本当に頭の良い人は誰にでもわかるように説明ができる」になってしまった。

さっき言ったように、これって人間誰しもが積んできた経験の話だから、非常に共感性の高い話題ゆえに尾ひれもつきやすいはず。

好き嫌いの話だと思うと色々とつながってくるんだよ。人間、好きなものは褒めたいし、嫌いなものは貶したいでしょ。この言説の一文は、それを同時にやれるってのがミソなんだと思う。

「頭が良い」というのはおおよそ褒め言葉だから、自分の中に「頭が良い人」を定義づけるときには、無意識に「褒めたい人の特徴」を定義づけがちになる。「説明が上手い人」がそこに位置すると、勝手に反例に「説明が下手な人」が位置付けられちゃうんだよね。嫌われてるし。

好きが超有利なんです。好き嫌いが絡んでいるからこそ、印象の差に拍車がかかる。

実際はね、色々な頭の良さがあると俺は思うよ。
わかりやすい説明ができることが、頭の良さの必要条件ってことはない。間違いないと思う。
ただ、それができる人は単純に好かれやすいし、できない人は嫌われかねない、そういう話なんだよね。

わかりやすく説明してくれる・教えてくれる人っていうのは、自分にとってありがたい存在だし、それができることに憧れたり、尊敬したりする人がすごく多いんだと思う。

よく考えてみると、学校の先生とかもそうだったなと。わかりやすい授業って、わかりやすいということが授業の楽しさの要因になっていたし、そういう授業ができる先生は生徒から好かれていた。

テレビのタレントもそう。池上彰は「説明がわかりやすい」というだけで、どんな人間性なのかわからないのにとても支持されてきたし、知的なことを説明するに限らず、マツコ・デラックスとかも面白いだけじゃなくて言ってることがとにかくわかりやすいでしょ。わかりやすさの好かれやすさ、ですよ。

どんな人が本当に頭が良いのか?みたいなことを念頭においてこの言説に向き合うと、モヤモヤするでしょ。なんか違う気がするって。実際違うんだよね。

「誰にでもわかりやすく説明ができる人」は、人が「本当に頭が良い人だ」と褒めたくなるほどに、求心力があり、多くの人に愛されている。

俺はこれが答えだと思う。うん。

「なぜ、どうして」の部分を掘り下げていってもっと細かい話をしていくと長くなりすぎてしまうので割愛したけど、昨今「言語化」というワードが流行ったのもこの辺りが大いに関係しているんじゃないかな。

色々と考えてまとまったので、俺もこれから初めて、このテーマについての見解を述べている人たちの記事を探して読んでみようと思う。

ここまで書いておいてアレだけど、間違ってたらごめんね!ってことで。おしまい。



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