【読書記録】東浩紀『存在論的、郵便的』を読む①
東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』の第一章「幽霊に憑かれた哲学」に書かれている「散種」概念について整理してみました。「散種」は、「多義性」と異なると言われていますが、一体どのように異なるのでしょうか。この差異を、東浩紀のデリダ理解のパラフレーズで、つまり二次文献からの要約ではありますが、行いたいと思います。ただ郵便本自体がデリダ論というより、デリダ-東論と言ってもいいと思うので、東浩紀がどのようにデリダの概念を語ったのかは重要であるように思えます。それでは参りましょう。
「散種」と「多義性」の違いについて
“war”という文字は、英語とドイツ語に同時に属するもの(二重所属)である。英語では「戦争」、ドイツ語では「存在する(3人称・単数・過去)」という意味になり、それぞれ発音も異なる。このとき“war”を発音してしまうと、つまりパロールになると、この二重所属性は解消されてしまう。二重所属性は書かれているもの、つまりエクリチュールにおいて可能になるのだ。
この“war”の持つ複数の翻訳可能性、概して「複数性」という現象をどのように考えればいいのだろうか。デリダはこの「複数性」を、「多義性(polysémie)」と「散種(dissémination)」という2つの異なる概念を持ち出して論じる。「多義性」は、”war”が置かれているコンテクストを踏まえれば、ある意味に翻訳・還元できることを意図した複数性の概念であるが、「散種」は、ある記号はある意味に還元することができないとする発想である。
この「多義性」と「散種」の差異は、パロールとエクリチュールの差異でもある。書かれた文字(エクリチュール)は、話された声(パロール)とは異なり、発した主体が不在であるため、その主体の意図とは独立に存在できる。したがって「エクリチュールはつねに、主体の制御を完全に離れたところで自由に引用され、解釈されうる」。このとき「多義性」は、背後のコンテクストによって異なる意味を持つ、つまり背後のコンテクストに遡行、さかのぼれば、記号が指し示すものが確定するという態度であるが、「散種」はそれとは逆に「任意のコンテクストからの切断可能性」、むしろ背後のコンテクストの統御から逸脱していくようなものである。つまり意味が、原理的に判断することができない状態のことを指す。
「多義性」の思考と「散種」の思考は、別の時間性を持つ。「多義性」において、ひとつの記号の意味を考える際、それに先行するかたちで、記号の背後に「コントクスト(記号を規定するもの)」があり、そこへと遡行していくなかで、その記号が指し示すものがわかっていく。このように「多義性」には、過去から積み重なっているコンテクストから、意味が明らかになる未来までが直線的に並べられている。また、そのコンテクストは複数ありえるため、それらコンテクストに対応する「個々の意味」の集積として「多義性」が捉えられる。しかし「散種」を考える際は、そうではない。ひとつの記号がまず先行しており、その記号があるコンテクストから切断され、引用されてうる可能性にさらされる中で、その記号の複数性が事後的に明らかになるのである。まとめるならば、記号よりもその背後のコンテクストが先行しており、あらかじめ複数性が確保されているのか、もしくは記号が先行しており、コンテクストを横断する可能性がある中で複数性が事後的に生み出されるのかの違いであろう。
またこの時間性の違いは、デリダの「同じもの」「同一性」を用いても語ることができる。デリダの「同じもの」は、ある記号がさまざまなコンテクストに引用されていく中で一貫して同じ形を保っていることを指す。一方、「同一性」はコンテクストに依存するもので、記号は背後のコンテクストによって、ひとつの「同一性」が与えられる。このように考えると「散種」は、単数の「同じもの」から出発し、複数の「同一性」が生み出されるような事後的時間性を持つと言えるが、「多義性」の思考は、記号に先立つ複数のコンテクストによる、それぞれに対応する「同一性」を考えているため、「散種」と異なる。
最後に、東が「散種の多義性化」と呼ぶものについて整理する。この状況は東の文章を用いるとこのようになる。「"war"という「同じ」記号 (シニフィアン)は英語とドイツ語では異なるシニフィアンをもち、その複数性から"war"の「多義性」は導かれる。」(p.37) これは「散種」の思考の時間性です。つまり記号が先行しており、それが複数のコンテクストを横断する、引用される運動があることで複数性が生み出される。そして事後的に「複数の同一性」=「多義性」が導かれる。しかし、そこから「多義性」の思考が入り込み、コンテクスト(記号を規定するもの)の存在を、記号よりも過去に想定させる。このように「散種」の運動、引用の運動とは独立に、まるでそのような運動がなかったかのように、「複数の同一性」=「多義性」を考えてしまうことを「散種の多義性化」、「散種の多義性への転倒」と呼ぶ。
以上であります。今度はフッサールの超越論的歴史に対するデリダ批判について、整理しようと思います。
※個人的後記
エクリチュールとパロールの差異について考えたいと思う。デリダはエクリチュールを「書かれた文字」、パロールを「発せられた声」として二項対立的に捉える。また「書かれた文字は、話された声とは異なり、発した主体が不在であるため、その主体の意図とは独立に存在できる」とする。うん、そうなのだろう。いや、そうなのか?
確かに私たちが身体を持ち、声をもってコミュニケーションするとき、その声はわたしの身体、時、場所に結びつくため、それを発する主体、つまりその主体の思考に紐づく。また、その声を受け取る相手も、わたしの身体、思考に基づいているものとして、また、これまで紡がれたコンテクストを踏まえて捉えてくれるのが、自然だろう。このように声を発せられる具体的な事例を考えれば、確かにパロールは、それを発する主体の意図と強く結びついていると言える。
一方エクリチュールは、文書とでも言えると思うが、それを書いた主体を伴わずに読むことができる。つまり、媒体となる「文字」「紙」をもって私たちはエクリチュールを読む。そのとき、著者名が付随して記されているかもしれない。しかしその著者の身体はない。過去にその著者が、その著者の身体を伴いながら書いたかもしれないが、媒体を通した以上、それは括弧に入れられてしまう。というより、もしかしたら、この著者が書いてないかも知れないという疑念が常に付きまとう。このように考えると、エクリチュールは、パロールと異なり、書き手の存在と、書き手の意図と断絶してるといっても過言ではない。ここから、書き手の意図と独立に引用される可能性がある、となるのだろう。
だが、なんか思弁的すぎるなぁ、と思ってしまう。確かにそのように考えれば、パロールとエクリチュールにそのような差異があると思うけども、全てのパロールが主体の意図に制御されており、全てのエクリチュールが主体の意図から外れる可能性があるのか。「可能性」と言ってしまえば、パロールだってあるんじゃないか?とか思ってしまう。また、エクリチュールの方でも、意図を外れる可能性をわざわざ取り上げる必要があるのか?と思ってしまう。
そう思う中で、千葉雅也の「哲学は誇張することが大事である」を思い出す。つまり、現実には微々たる可能性かもしれないが、それを誇張し、それを超越論的前提に添えて思考したらどうなるのかを考えるのが哲学である、ということらしい。これを踏まえると、エクリチュールの引用可能性、つまり主体の意図から外れていく可能性を誇張する。そうするとパロールにもその可能性があり得てしまいそうだが、パロールとエクリチュールの差異を誇張することによって、パロールが完全に主体の意図に制御されていると誇張できる。うん、そうすれば納得がいくなぁ、と思った次第である。むしろ思うのは、そのように誇張することで見えてくるものに焦点を当てたいときに、デリダがやったような誇張すればいいのであって、別のものに焦点を当てたかったら、別の誇張の仕方があるのだろう。そう思った。