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【要約】伊藤亜紗『手の倫理』

全体要約

同書では、「手」を介した他者関係のあり方が論じられている。これまで西洋の倫理では、主に「まなざし」という視覚遍重の議論がなされてきたが、そうした倫理は他者と物理的な距離を置いた関わり方を想定している。しかし視覚障がい者は「まなざし」とは無関係に生きており、日頃は他人と「距離ゼロ」の関係をむすんでいる。同書では、介助やリハビリの現場での「人が人の体にふれる」具体的な事例を取り上げ、そこから「人が人の体にふれるための技術」=「手の倫理」を学ぶとする。

また同書は、これまでの西洋哲学における触覚論が、物や自分の体を一方的に「さわる」ことに話が限定されていたことを指摘し、先ほどの事例を通じて、新たに「人の体にふれる」ことにも拡張させる。具体的に「ふれる」の特徴として、①人にふれる際には表面の情報だけでなく「奥にある動き」も感じ取れること、②ふれる瞬間には、ふれる側がふれ方を決められるため、ふれる側とふれられる側が負う不確実性には非対称性が見られ、ふれられる側は相手に身を委ねる「信頼」が発生すること、③ふれあいを通じて相手とコミュニケーションする際には、接触面からお互いの情報を拾い合い、接触の仕方を微調整しあう「じりじりとしたコミュニケーション」になることが挙げられる。ここには、自と他の境界を曖昧になりながら、相手の身体から漏れでる情報をうまくキャッチし、暫定的に関係を紡ぎつづける「ふれあい」を発生させるヒントがある。

ただ触覚は、様々な誘惑や連想が働きがちな感覚で、判断の根拠になるリアリティや道徳を揺さぶるものである。しかしだからこそ、状況を画一的な視点で捉えるのではなく、具体的な状況の複雑さに向き合うことができ、そこから悩みながらも自分なりに最善の答えを出すような倫理的な応答が可能なのである。

各章要約

日本語の「さわる」と「ふれる」は動作としては似ているが、微妙にニュアンスが異なる。「さわる」は「傷口にさわる」からも分かる通り、さわられる側を無視した一方的な印象があるが、「ふれる」は「体にふれる」など、相手をおもんばかるような相互性がうかがえる。このように人と人との接触にはさまざまな仕方があり、われわれは接触面のわずかな力加減などから相手の自分に対する態度を読み取っている。つまり接触面には「人間関係」があると言えるだろう。そうした手を介した人間関係において「よきあり方」、つまり「よきさわり方/ふれ方」はいかにしてありえるのか。そうした「手の倫理」を本書では考える。

第1章 倫理

これまでの西洋の倫理は、視覚に重点が置かれてきた。そうした「まなざし偏重の倫理」に対して、それとは別の世界で生きている視覚障がい者らの「人が人の体にふれる時に必要な技術」=「手の倫理」を本書では論じる。このときの「倫理」とは、画一的な正しさを志向する「道徳」とは異なり、具体的な状況に向き合い、「〜すべし」という杓子定規に縋ることなく、悩みながらも自分なりに最善の答えを出すことを指す。そういう意味では、今回扱う「さわる/ふれる」は、人それぞれでしかない身体や感じ方と必然的に向き合わざるをえない点で、常に倫理的と言えるだろう。ただそうした個別具体的な状況に埋没することなく、それを通じて普遍的な次元を問い直していくことこそが倫理的なのだ。

第2章 触覚

今回扱う「触覚」であるが、西洋哲学において触覚は、他の感覚に比べ「劣った感覚」とされ、かつ物体や自分の身体を「さわる」ことに話が限定されていた。「劣った感覚」とされた理由として、触覚によって対象を認識するとき、対象から自己を切り離させないため、その認識が自己の欲望を伴ってしまうこと、また対象全体を認識するのに時間がかかることが挙げられる。また「触覚」の特徴として、自分が自分の体を「さわる」ことで自己の輪郭が確認できることがとりわけ語られた。これらの特徴は、①対象に物理的に触れている「距離ゼロ」、②対象の全体を認識するのに時間がかかる「持続性」、③さわる主体とさわられる客体を入れ替えた際の不変性=「対称性」と整理できる。

以上のような「さわる」偏重の触覚論を「ふれる」ことにも拡張したい。つまり、自分と異なる身体との相互介入も含めて考察しようというのだ。はじめの①対象に対する「距離ゼロ」の認識では、対象の表面の情報(温度、硬さなど)を受け取ること考えられるが、表面だけではなく内部の情報「奥にある動き」も感じ取れると言えるだろう。その例として、子供と戯れる際、それが「じゃれあい」か「力比べ」かもわかったりするのが挙げられる。

第3章 信頼

安心と信頼は異なる。安心とは「ひどい目に遭う可能性を意識しないでいい状態」であり、信頼とは「ひどい目に遭う可能性があるにもかかわらず、それでもひどくならない方を期待して、賭けること」である。つまり信頼とは「不確実性」に向き合うことに他ならない。

人が別の人の体にふれるとき、常に不確実性がつきまとい、リスクが発生するが、その不確実性は「ふれる側」「ふれられる側」で大きく異なる。触れ始めのふれ方は、ふれる側が主に決められるため、ふれられる側の方がはるかに不確実性が高く、そこには非対称性がある。そのため、ふれられる側は相手に主導権を委ねるという、大きな信頼が必要なのである。ここには、自分の身体を「さわる」際に見られた純粋な対称性(②)は成り立たない。

また接触の瞬間は特に不確実性が高い。その時、ふれられる側は気合いのような刹那的信頼が必要だが、身を預けられるような関係を築くと、その肩の強張り、緊張は落ち着き、次第に「(高次の)安心」へと変わっていく。それは言うなれば、「老夫婦的安心」といっていいだろう。

第4章 コミュニケーション

コミュニケーション全般は大きく「記号的メディア/物理的メディア(非言語的メディア)」と「伝達モード/生成モード」の2つの軸で分類できる。はじめの軸の極である「記号的メディア」は、あらかじめ記号に意味があてがわれている言語が代表的である。もう一つの極である「物理的メディア」は、体の接触や目線を通して相手に何かを伝えるものである。また2つ目の軸の極である「伝達モード」は発信者があらかじめ用意してきたメッセージを一方的に伝えるものだが、「生成モード」は双方的なコミュニケーションで「その場で作られていく」というライブ感を持っている。今回扱うのは「触覚」なので、考える領域は「物理的メディア」になる。また、これまでの議論での「さわる/ふれる」は「伝達/生成」に対応する。

触覚が「劣った感覚」である理由として、対象全体を認識するのに時間がかかること(③)が挙げられていたが、「ふれあい」を通して相手と生成的なコミュニケーションする場合、それは好意的に働く。「持続的」であるからこそ、接触面からお互いの情報を拾い合い、接触の仕方を微調整しあいながら展開される「じりじりとしたコミュニケーション」が可能なのだ。そのため状況依存的な倫理的対応できるのは、「ふれる」ようなコミュニケーションなのである。

しかし「ふれる」だけでなく、時に「さわる」ことが有効な場面もある。「さわる」は、伝達モードゆえ「ふれる」より相手との心的距離がある。ただ人間の手に負えない領域、根源的な遠さに対して畏怖を示すとき、自と他が溶解しているような「ふれあい」ではなく、あえて自と他の距離をとるような「さわる」こともある。このように「ふれる」の中に「さわる」も含めることでより深い他者との関わりがもてるのである。

第5章 共鳴

ここでは、身体ベースの生成的なコミュニケーションの事例として、視覚障がい者の伴走を取り上げている。目の見えないブラインドランナーとその伴走者はロープを媒介にして共に走るのだが、著者は、そこに「共鳴」という名にふさわしい現象をみてとる。ここでの「共鳴」とは、一方の動作が自ずともう一方に伝播してしまうことである。

その「共鳴」の発生は、伴走時に使う「ロープ」に秘密があるという。伴走時は、直接腕を掴んで繋がるのではなく、ロープを介して間接的に繋がる。その時、前者と大きく異なるのは、繋がりに「あそび」があることだ。「あそび」があることで、動作のすれ違いによる衝突が起きづらく、ズレを吸収し、またそのズレを通じて、互いの状態を間接的に受け取れるのである。このようにして自と他の境界がやんわりと溶けだし、「1人で走っている」×2ではない体験が生まれる。

このとき、ロープを通じて伝達されている情報は、伝えようと意図したものも、伝えようと意図していないものも含まれる。つまり「筒抜け状態」なのである。ただそうなるには、自分自身の中に相手の情報を受け取るための「隙」、つまり相手に自分の一部をゆだね渡していることが必要である。緊張したり、また相手を信頼していないと「伝わってくる」情報を上手く受け取ることができない。相手に身を預け、相手に自分を開くことで、相手が意図してない情報も入ってくるのだ。

このような「共鳴」のコミュニケーションは、生成コミュニケーションの究極形態であり、自と他の区別が曖昧になり、全てが筒抜け状態になるため、伝える情報を意のままにコントロールする「伝達」とは対極である。

第6章 不埒な手

触覚は様々な誘惑や連想が働きがちな感覚で、判断の根拠になっているリアリティや道徳を揺さぶるものである。しかしだからこそ、状況を画一的な視点で捉えるのではなく、具体的な状況の複雑さに向き合うことができ、そこから試行錯誤しながらも倫理的な振る舞いを紡ぎだせるとも言えるのだ。


○好きな言葉

「言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える。」

(p. 44)

○コメント

・ここには、大きな構図として「健常とされている者→視覚の倫理」「視覚障がい者→触覚の倫理」というのがある。つまり2つの異なる文化があり、一方の文化が不可視化されてきたという構図である。それに対して、「視覚障がい者」特有の倫理、触覚の倫理を言語化することが、同書で行われている。そして「手の倫理」を技術とすることで、普遍化可能な倫理のあり方とする。こうした視覚障害者文化の固有性と拡張性は、健常とされている者たち文化を揺さぶりえる。
→これはジェンダー・セクシュアリティ分野におけるクィア理論での「マイノリティ化の見解」と「普遍化の見解」の両犠牲を上手く使う戦略と言えるだろう。

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