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「チ。」への欲求
アニメ「チ。」
途中からだが、非常に面白く見ている。いろんなことを思い出したり、考えたり。
真理を知りたいと思う欲求は、学ぶことのモチベーションであり、そのキッカケを与えるもののひとつが教育だと思う。
学生のとき教育実習に行った。私が学んだ大学はもともと高等師範学校で、教育学部が看板だったためか、高校の教員免許をとるのに小学校と高校(付属)の両方で教育実習をすることとなった。
学生4人ずつでグループを組み、それぞれが授業を担当して、担当教授を交えてゼミ形式のディスカッションをする。
私たちのグループは、哲学科の学生2人(院生1人、学部生1人)、国文学科の学部生1人、地理歴史学科の学部生1人という構成だった。
高校の授業は自分の得意分野を選んで授業をすることができた。哲学科の博士課程で学んでいた同グループの院生が、そのときの教育実習最後の締めくくりの授業を担当することになり、当時の倫理社会という科目で中世ヨーロッパのスコラ哲学(アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、オッカムなど)を取り上げて、高校生(確か2年生?)相手にアンセルムスの「神の存在証明」やスコトゥスの「存在の一義性」について説明しながら、スコラ哲学が後世に与えた影響についての授業を行った。アンセルムスは後のカントやデカルトなどにも大きな影響を与えることになるスコラ哲学の祖である。
彼がそのとき大学院の博士課程で取り組んでいた研究が生かされた、静かだがエキサイティングな研究発表のような授業で、教育実習に慣れた附属高校の、優秀だが生意気な生徒たち(下手な授業でもしようものなら、すぐやり込められてしまう)が、シンとして授業に引き込まれていく様子がありありと見てとれた。
その後、全体会で指導教官の一人が最後の院生の授業を例に取り上げながら総括を述べた。私はそのときの言葉が忘れられない。
そのままの言葉は覚えていないが、内容としては以下のようなものだったと思う。
「子供であっても、学問の真理を理解し感動することができる。彼(院生)の授業は大学の講義や論文レベルの内容だったが、わかりやすく門外漢の私たちや子供にも理解できる授業で、非常に感動した」という内容だった。哲学を子供でも理解できる易しい言葉で語り、誰でもその哲学の真理に触れることができれば、学びたいと思う人や子供がもっと増えるにちがいない。
専門用語を使って説明することは簡単だが、子供にもわかるような言葉を使って説明することは本当に難しい。
専門用語を使いながら、さらに深められた思考がさらに新しい専門用語と言い回しを生み出す。難しい言葉を使うことがカッコいいファッションのようにもてはやされた時代もあった。専門用語を使いながら、特殊な言い回しで語られる哲学は一般の人にはチンプンカンプンで哲学を学びたいというモチベーションにはなかなか繋がりにくい。
恥ずかしながら、私は大学で哲学を齧っていた。日本でもう少しわかりやすい言葉や言い回しで哲学を語る人や研究者が出てくれば、この学問が世の中に貢献できるものとして認知されて、大学から哲学科そのものがなくなったり、ほかの学科と統合されたりすることはなかったのでは、と思う。
実学(例えば工学や経営学など、実生活や仕事に直接役立つ学問)に比べて、哲学のような学問は生活に役に立たないもの、机上の空論、などと揶揄されることも多かった。
しかし最近欧米では、哲学に再び光があたり、大学では哲学の講義が人気になっていると言う。
まわりで起こっている物事や通説、常識を疑い、自分でよく考えることを学ぶこと、それが哲学という学問で、SNSが広がり、AIが台頭しつつある今だからこそ学ぶ価値のある学問ではないだろうか?
「ミネルヴァの梟🦉は黄昏時に飛び立つ。」(ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉より)
たくさんの正義が並び立ち、何を指標に進めば良いのかわからない現在の危機的状況(黄昏時)にぴったりの言葉だ。