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さみしさを埋められるのは自分しかいない―「非婚女性」を読んで

「自分の面倒だけ見てるから大変」な、独身女性

35歳、未婚、子なし、一人暮らし。

生粋の独身である、このわたし。

もちろん、結婚して子どもを持つことを願った時期がないわけではなく、マッチングアプリも婚活パーティも街コンも合コンも、数え切れないくらいにはしたが、未だにわたしは独身である。

いつだったか実家に帰省したとき母に「みんな夫や子どもの面倒見れてほんと偉いよね~!わたしは自分の面倒見るのだけで精一杯だわ!あっはっは」なんて冗談を言ったことがあったが、その時の母の回答が印象的だった。

「自分の面倒だけ見てるから大変なんだよ」

今回読んだ「非婚女性 けっこう上手く生きてます(クォン・ミジュ)」に書かれた一文を読んで、この母の言葉を思い出していた。

既婚者から見るとシングルは気楽そうに見える。
縛られるものがないのだから。

しかし、重要なことが一つある。
シングルは自分自身に縛られている。

第1章「私たちはなぜ、結婚に夢を抱かなくなったのか?」

幾度となくぶつけられる、他人からの「なんで結婚しないの?理想が高いから?(笑)」という嘲笑を含んだ質問。

こんな失礼な質問を受けるたびに、一気に沸点に達した脳みそをまずは年の功で手に入れた”大人な対応”という名の氷水を使って冷ましていく。

そして、できるだけ“可哀想”とか、“寂しい”とか、”情けない”とか思われないように、自分も相手も納得できるよう、言葉を選びながら解答を紡ぎ出していくのだ。

これが本当に疲れるから、最近はこんな質問をするような人間とはそもそも会わずに生きていく術も会得した。

しかし、こんな質問をされなくても、自分で「なんでわたしは結婚してないのかな」と思わざるを得ないことが、何気なく過ごす生活のなかにもたくさんある。

そのたびに、独身でいることの良さや楽しさ、独身だからこそ享受できている今の生活を頭の中で羅列させることで、自分を納得させなければならない。

母が言っていた「自分の面倒だけ見てるから大変なんだよ」という言葉や、この本の「自分に縛られている」という言葉の意味は、つまりこういうことなんだろうと思う。

さみしさに振り回されていたわたし

少し前のわたしは、誰とも会う約束のない休日がこの世で一番怖かった。

「誰からも会いたいと思ってもらえていない」
「わたしは誰からも愛されていない」

なんて、勝手に捻じ曲げて解釈し、自分を絶望のどん底に陥らせることがよくあった。

だから、人からの誘いはできるだけ応じるようにしていたし、予定がない日は焦って計画を立てたりすることも多かった。

この、「さみしい」という感情だ。

わたしはこの、「さみしい」という感情にひどく敏感で、ひどく振り回される体質らしかった。

これは、どんなに友達がいても、翌週には人と会う約束があったとしても、親が健在でも、いつでもつきまとい、いつでもなにか足りないと感じていた。

だからパートナーが欲しかった。

いつでも話を聞いてくれて、味方でいてくれる人がいれば、このさみしさは消える。

この自分の中にあいた穴を埋めてくれるものだと思っていた。

独身だから、こんなにさみしいんだ。

そのロジックが間違っていることは、今なら容易にわかるのに。

さみしさを埋められるのは他人ではない

「非婚女性」の第四章は、メモする手が止まらなかった。

章のタイトルはズバリ、「ひとりでいるから?二人でも同じ」だ。

メモした言葉をいくつか抜粋する。

結局、寂しさという感情は、内なる自分に出会っていないために生まれる感情なのだ。心の奥底でしんどいと言っているのに、私を見てと言っているのに、それを無視したまま他の誰かと出会おうとするだけなら、内なる自分は満足できない

第4章「ひとりでいるから?二人でも同じ」

不安を消すための方程式を見つけて解決しようとしても、不安が消えることはない。この世にそのようなものはない。不安は消せるものではないので、克服するのは、不安の中で心が揺れ動いてもたくましく何度も起き上がり、決して私を脅かすものではないことを経験する以外にない。

第4章「ひとりでいるから?二人でも同じ」

ネガティブな感情や楽しくない日々は、結婚した人にも、シングルの人にも訪れる。乗り越える力は、自らを愛することから生まれてくる。

第4章「ひとりでいるから?二人でも同じ」

自分が感じている”さみしさ”を、「独身だから」で片付け、未来のパートナーに解消してもらおうとしていたこと。

それがどれだけいい加減で、他人任せで、乱暴なことだったか。

まずは自分を知り、自分と向き合い、自分で自分を満たせるようになることが何よりも大事なことだった。

自分でできない、自分でやらないようなことを、他人がやってくれるなんて期待するのは大間違いなのだ。

「私にとって一番の親友になることにした」

この本の第二章に、「私にとって一番の親友になることにした」という節がある。

この言葉は、今のわたしにとって一番しっくり来たし、一番必要としていて、そうなれるよう努めていることだなと感じた。

最近、一人で過ごす週末が増えた。

以前のように、さみしさをやり過ごすために一日中映画を観て頭を痛めて、「あーわたし何やってんだろ」なんて思うことはない。

今日は、一番の親友である自分と、どこに行って何を食べようか、どんなことをして一緒に楽しく過ごすか、朝起きて考えるのがとても楽しい。

誰かと過ごすのも楽しいけど、自分と過ごすのも同じかそれ以上に楽しいと思えるようになってきたのだ。

もちろん、完全にさみしさと決裂できたとは思わないが、もし今後、さみしさの波が襲ってきても、支配されることなく自分と向き合える気がしている。

「私にとっての一番の親友になる」。

よく「自分の機嫌は自分で取る」なんて言葉を聞くが、その言葉よりもずっと、この表現がわたしは好きだ。

自分の嫌なところも、可愛いところも、いい加減なところも、しっかりしたところも、すべて受け入れて抱きしめる。

常に自分にとっての一番の理解者であること。

四六時中一緒にいて、わたしの歴史をよく知っているわたし自身だからこそ、そうならなければならない。

自分さえいれば、さみしくないと思えるように。


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