いい感じの短歌研究:七首目
このシリーズは、僕が「あ、いいな…」と思った短歌の、「いいな」を考えてみる試みです。日課にしていきたいので、1000字以内。直感は見つめ過ぎたら逃げていく。
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今日も、短歌ムック『ねむらない樹 vol.1』で知った歌を。伊藤一彦さんの歌集『微笑の空』に載っている歌です。
この歌を見たとき、ふと松尾芭蕉の有名な俳句が頭に浮かんだ。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
いろんな解釈があるだろうけれど、この句では自然や世界の途方もなさが伝わってくる気がする。
ちょうどいま、窓の外からカエルの大合唱が聴こえる。状況はだいぶ違うものの、キーボードを打つ指を止めると、カエルの声が世界を占める。なんだか、自分が遠ざかっていき、そこにはたしかに「閑さ」があるように思う。
それをふまえて今回の歌に戻ってみると、この歌でもたしかに「閑さ」が横たわっていると感じる。けれど、後半に登場するのは老人のささやき。蝉の声やカエルの大合唱とは少し違うもの。
僕はなんだか、それがいいと思った。たしかに人間の声だけれど、その人間も世界の一員で。蝉やカエルの声と、どこに違いがあるのだろう。
とはいえ、これが「はじめての告白の声」とかだと、違いはある気がする。閑さがない。ここで出てくる声が、年月を携えたものであることは大切なのだろう。
有限である人間が発する、年月を携えた声。それは自然や世界の途方もなさに、限りなく肉薄しているのではないか。有限性が尽きようとしているとき、翻って無限性に手を伸ばしているのではないか。かすかな瀬の音にまで、重なるくらいに。
でも、人間の有限性も手放していない。だからこそ、閑さが満ちている歌なのに、なんだか近いところにあるように感じる。
無限性/有限性、人間/自然・世界、遠さ/近さが、静謐に重なっているところに、心が反応したのかもしれない。