短歌にふれる 十五首目:海の恍惚さ

このシリーズは、短歌に惹かれはじめた筆者が「あ、いいな…」と思った短歌の、「いいな」を味わってみる試みです。日課にしていきたいので、500〜1000字で。直感は見つめ過ぎたら逃げていく。

追記)明日から、週単位での更新にしようかと思います。

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今日は佐藤佐太郎さんの歌を。

冬の日の
眼に満つる海
あるときは
一つの波に
海はかくるる

夜の静けさが満ちている。勝手に夜が浮かんでいたけれど、こうして情景をパンっと浮かばせてくる歌は、やはり心を立ち止まらせてくる。その佇みからは、自分だけの意味が漏れ出てくるから面白い。

なんで夜の海って、それ自体がどこか恍惚としているんだろう。「遺骨をどこに撒くか」と問われたとき、「海に撒いてくれ」という返答をフィクションで多く耳にする。海は、還る場所なのだろうか。

お子が生まれてばかりのとき、「波の音を聞かせると落ち着くことがある」という記述を読んだことがある。どうやら、波の音と胎内にいたときの音が似ていて、赤ちゃんは落ち着くらしい。たしかに、胎内には羊水が満ちている。人間の身体のほとんどが水でできていて、羊水に浸った状態から生まれてくるのなら、人間が還る場所は海なのかもしれない。

そう思うと、海に惹かれるのは、“向こう”に呼ばれているからとも感じてしまう。この歌で、海が目に満ちている情景は、まさに呼ばれている状態な気がする。

でも、たったひとつの波で“向こう”は見えなくなりもする。還る場所ではあるけれど、拒絶されることもある。それでも、また呼ばれる。そしてまた、海の恍惚さに魅せられる。

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安久都智史/とろ火
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