短歌にふれる 十二首目:鈍さが心地よい歌

このシリーズは、短歌に惹かれはじめた筆者が「あ、いいな…」と思った短歌の、「いいな」を味わってみる試みです。日課にしていきたいので、500〜1000字で。直感は見つめ過ぎたら逃げていく。

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楠誓英さんの歌。『薄明穹』という歌集で出会った歌。

いつからが死後なのだらう滝壺にまはりつづけるボールのありて

この歌の周囲だけ、重力が普段の1.5倍くらいになっている気がする。心も身体も、ちょっと下に沈む。ただ、それはいわゆる「沈んでいる=落ち込んでいる」という感覚ではなく、足の裏の感覚がより強く起き上がってくる感じ。

僕たちは、簡単に“死”という単語を使う。「明日死ぬとしたら」「人はいつか死ぬんだよ」「死んで欲しいくらい憎い」などなど。でも、“死”ってなんなのだろうか。

そんな単純で強烈な問いが、死後を見つめる視点から浮かんでくる。いま、僕は死んでいないとなぜ言えるのだろう。いまここが、死後の世界じゃないとなぜ言えるのだろう。

身と心が沈んでいく。その重くなった視線は、滝壺でまわりつづけるボールを見ている。寄せては返すボール。そこには永遠がある。その姿は、僕たちとなにが違うのだろう。生きると死ぬを繰り返す存在と、なにが違うのだろう。

重い視線が、自らにも向けられる。鈍さが心地よい歌。

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安久都智史/とろ火
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