短歌にふれる 九首目:自分を貫く必然性

このシリーズは、短歌に惹かれはじめた筆者が「あ、いいな…」と思った短歌の、「いいな」を味わってみる試みです。日課にしていきたいので、500〜1000字で。直感は見つめ過ぎたら逃げていく。

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今日は、野口あや子さんの歌を。短歌研究社さんから出ている歌集『くびすじの欠片』で出会った歌。

憂鬱と呼ぶには青があわいからラムネの壜を割ってあそぼう

この歌を見て心に浮かんだものはなんなのだろう…と考えながら、15分ほど空白のエディターを見つめていた。その真っ白にも、色がついたような感覚で。ずっと味わえそうな気がした。この歌の情景を見つめ続けていたい。

なんで、ずっと見つめられると思ったのか。そこに、危うさがあるからかもしれない。

触れたら壊れそうなのに、光も満ちているような。いや、触れたら壊れそうだから、光が満ちているような。

「憂鬱」という入口で、「ラムネの壜を割ってあそぶ」という出口に辿り着くとは、とうてい予想できない。それも、「憂鬱と呼ぶには青があわいから」という理由。わからない。

でも、確実にこの人にとっては必然性があるのだと思う。常識が〜、とか、社会が〜、とかではなく、ただこの人にとってだけの必然性。マイルールなんてものではなく、自然の衝動。

だから、危うさも感じるのに、そこにははっきりとした“この人”がいる。

もしかしたら、自分が色濃く滲む様には、自ずと危うさも醸し出されるのではないか。危うさは、予測不可能性でもある。それは、一般化を拒むもの。

自分を貫く必然性を探してみたい。

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安久都智史/とろ火
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