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#2000字のドラマ 『ねえ、しあわせ?』
「ねえ、キミはしあわせ?」
ふとした瞬間に問いたくなる。
キミと初めて出会ったのは、海の近くのまだ何も植えられてない砂地の畑。
熱くも寒くもない時期だった。
当時のキミは今より二回りくらい小さくて、
ビー玉みたいなキラキラした緑色の目で私を見つめて、にゃあ、と鳴いた。
それから小走りで一目散に私のほうに寄って来て、
どう接すればいいものか戸惑っている私の人差し指を夢中でぺろぺろと舐めた。
元来、「一目ぼれ」という言葉には縁のない人間だった。
あの人かっこいいな、あの人綺麗だな、そういう感覚はあれど、
一目見ただけで誰かを好きになってしまうなんてことは到底ありえない。
そんな私が瞬時に確信した。
運命だ、と。
この子を飼う、家族になる、それが至極当然のことのように感じて仕方なかった。
でも、実家暮らしで、『親のすねをかじる』まではいかなくとも、ひと舐め、ふた舐めくらいはしていた私には、キミを勝手に連れ帰るなんてマネは出来なくて、泣く泣くその場に置いていくしかなかった。
その夜、両親にキミのことを話したけれど、のらりくらり交されてしまい、説得することは出来なかった。
私は、一晩中キミのことだけを考えていた。
次の日は、雨が降っていた。キミのことが気になってしょうがない。
「こんな雨の中、あの子は小さな体で震えてるかもしれないんだよ」と、ほとんど泣き落としに近い形で母親を説得すれば、前日あれほど頑なだった彼女の心がふっと緩んだのを私は見逃さなかった。
それから近所のホームセンターに行って、キャリーケースとトイレと、とりあえず目についた適当なウェットフードを買って、白の軽トラで母と共にキミのもとへと急いだ。
いなくなっていたらどうしよう……、ふとそんな不安がよぎった。
でもキミはちゃんと同じ場所にいてくれて、私たちを見つけると、にゃあ、と鳴きながら寄って来た。
小さくて、人懐っこいキミ。
捕まえるのは簡単だと思っていた。
なのにキミは抱っこされるのが大嫌いで、持ち前の柔軟性と研ぎ澄まされた爪を使い、するりするりと私の腕をすり抜けていく。
どうやってもキミを捕まえることが出来なくて、その内にも雨はどんどん強くなっていって、みんな全身びしょ濡れ状態で、終いには母親が「もう、他の猫にしない?」と切羽詰まった声で叫んだのだった。
それからの記憶は、はっきり言ってあまりない。
多分、あの手この手を駆使してなんとかキミをキャリーバックの中に無理やり押し込んだのだと思う。
やっと家に戻って、私の部屋にキミを連れて来た時は、それはそれはほっとしたことだろうと思う。
確か、キミはすみやかにベッドの下に潜り込んで出てこなかったのではなかったかと思う。
今思うと、あの日の私はかなり舞い上がっていたのだと思う。
夜になり、やっとベッドの下から出てきてくれたキミは、カーテンの裏に隠れて窓の外を見ていたね。
二階にある私の部屋からの田舎の景色は、ぽつんぽつんと家の明かりが見えるだけで、私の目にはほぼ真っ暗に見えた。
でもキミはじっと窓から視線を逸らすことはなくて、私にはキミの横顔しか見えなかった。
あの時のキミの顔だけは、よく覚えている。
猫には大して表情なんてないはずなのに、その時のキミの横顔はとても寂しそうに見えたっけ。
全身まっ黒で、和風顔したキミの名前は、なんとなくの流れで『くろ』になった。
動物病院でキミの名前を言ったら、「やっぱ、それしか付けようないですよね」って苦笑いされたのを今でも思い出す。
くろ、と呼び捨てにするのはなんだか違う気がして、私はキミのことを敬意を込めて『くろさん』と呼んでいる。
あの日から、三年と少しが経つ。
今でも、キミが私のベッドで気持ちよさそうに寝ていることを、なんだか夢みたいだな、って思う。
こんなことを言うのは、本当は良くないのかもしれないけど、私はキミを置き去りにしていってくれた人に心から感謝している。
皮肉でもなんでもなく、心から。
キミが生まれた時から、私と出会うまで健康に育ててくれてありがとう。
トイレを覚えさせてくれてありがとう。
キミが人を大好きなのも、その人が愛情を注いでくれたおかげだ。
そして何よりキミと出会ったあの場所を選んでくれたことにも、何もかもに感謝している。
今、これを書いている私の傍らで、お腹をだしながら床にぐでーっと寝転がっているキミ。
わき腹辺りを撫でると、しっぽがぴくぴくと動く。
ああ、なんてかわいいのだろう。
調子に乗ってお腹を撫でると、キミがさっと頭を上げる。
キミのきれいな緑色の瞳が私を見る。
今なら心が読み取れるんじゃないかと、そんな気がして、私はキミに訊ねる。
「ねえ、キミはしあわせ?」
『くろさん』が、ほんの少し目を細めた。