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自死する権利
新卒で社会に出て早々、精神を病み会社を辞めることになった人がいる。
頭脳明晰で周囲への配慮も欠かさない。
人としても魅力的であり心も美しい彼女。
目を見ればわかる。
育った環境、進学した大学、就職した会社。
病んだ原因は一つではなく様々な要因が複雑に絡み合って現状の苦しみの因となっている。
「もし母親があの様な育て方をしなければ」
「もし大学のカリキュラムが教授のエゴではなく学生を育てるためのものであったなら」
「もし会社が精神の病を理解した上で採用してくれていれば」
残念ながら過去となってはその全てが変えることはできない。
今の日本はいまだに精神の病を根性論で片付けようとする人々で構成されている。
言い換えれば心を病んだら人間扱いされない。
むしろ「健常者が苦労して納めている血税を、社会に貢献もできない輩に浪費している」と命の存在自体を認めず社会から抹殺しようとする。
ハローワークで障害者枠の求人を検索してみればわかる。
僕もその枠で何社も応募したが「車椅子などの身体的障害者は受け入れ実績があるが、精神障害者は受け入れ経験が無いため」との理由で100%不採用だったからだ。
自分が病むまでは他人事のように感じていたのかもしれない。
病んでから初めて日本で暮らす息苦しさに気づいたのかもしれない。
では、病んだ自分はどの様に生きていけばいいのか。
今だからこそネットで簡単に検索もできるようになったが、僕が発病した25年前は、大学病院の精神科医師でさえ自立支援や障害年金について、相談しても教えてはくれなかった。
役所の窓口や友人の口伝えでその存在を知り、最低限の収入ではあるが今も生きている。
しかし生活は困窮し、家内と息子との3人で生活できる水準ではなかった。
そのため昨年に自己破産をし、今年5月末には家内とも離婚した。
家内の実家側の人々から「あんな奴とは早く別れろ」と言うに耐えないプレッシャーをかけられ続けた結果だ。
僅かな年金は受給できても失ったもののほうが大きく精神的ダメージも強烈だ。
だから僕はたとえ精神が病んでも「生きる権利がある」ことを声高にして訴え続けている。
しかしだ。
冒頭に書いた彼女は「自死する権利」が唯一の安心であり、常に不安を抱き、思いのままに動くことすらできない状態でいる。
「いつでも死ねる」という感心感が彼女の唯一の支えなのだ。
処方薬を溜め込んでは思い立ったようにODをする。
幸い毎度失敗に終わって事なきを得ているのだが。
こんな彼女を助けることも傍にいて心に押し込んでしまった苦しみを分かち合うこともできない自分の無力さに打ちのめされている。
彼女の親は泣いて訴える娘を受け入れるどころか突き放している。
家出同然に飛び出し、現在は理解しようとしてくれる彼の部屋で布団に包まって休職日数を数えながら生活している。
どうやら今月末での退職が決まってしまったらしい。
だがそんな彼の将来を奪う権利は自分には無いからとODのことは打ち明けていない。
おそらく主治医にも言っていないのだろう。
言えば当然、薬も処方されなくなり精神病棟に隔離されるレベルだからだ。
僕もそうだったからわかるのだ。
そんな彼女には心から「生きていてほしい」と願っている。
日本には「HARAKIRI」つまり切腹が美談のように語られる例が異様に多い。
年末には「赤穂浪士」のドラマが流れる。
侮辱された事で吉良に切付け無念の切腹をさせられた主殿にかわり、大石内蔵助を中心に仇を討つ。
その末路は四十七士の切腹だ。
このドラマの視聴者は大概「命をとしての仇討ち、天晴れなり」と感銘を受けているのだろう。
だか僕は単純に大石が正義で吉良が悪とは思えない。
江戸幕府の武家政権にも翳りが見えてきたこの時期、様々な政策を打ち出しての改革は必要であった。
もちろん全ての人に喜ばれる政策などない。
その中で幕府の権力者であった吉良を事もあろうに松の廊下で切付けた。
見方によっては私怨ともいえる行動を美化し、更にその仇討ちをも讃える日本人は、やはり海外の人から見れば理解不可能な人種なのであろう。
近世でいえば1970年11月25日。
自らの志を貫いて割腹自殺した三島由紀夫がいる。
彼もまた米国の傀儡国家となっている日本を憂い、命をかけて正義とは何かを世論に訴えた。
自殺には様々な事例があり、切腹だけでもその例は枚挙にいとまがない。
では本題に戻ろう。
「自死する権利」。
僕はそれは肯定せざるを得ない。
人間の命の尊厳という意味で。
だが精神を病み、自分の居場所、存在意義を見失っての自死については真っ向から否定する。
毎年国内の自殺者数が公表される。
その根本的解決に向けての政策など何十年経ても皆無と言っていい。
問題なのは人としての命を軽んずる国民一人一人の意識なのだから。
年々増加していく現状をみて「何で自殺なんかするのかね?」という哀れみの目で見られることの方が残酷な仕打ちだ。
自殺者の一人一人が必死に生きて生きて、家族や大切な人の悲しむ姿に懺悔の念を抱きながら自死を選んだんだ。
ただの統計ではない。
あいみょんの「生きていたんだよな」を聴くといつも涙が止まらなくなる。
だからこそ僕はどんなに嘲笑を受けようとも歯を食いしばって生きている。
この苦しみを理解できない人のほうが哀れだと気づかせたい。
むしろ理解できない人のほうが欠陥品だ。
ここで僕が自死を選べば単なる統計の棒グラフを長く伸ばすだけだ。
精神的な病ではなく身体的な病の方も多い。
どんな人でも生きていてよかったと思えるような日本になってほしい。
そのために今日も明日も明後日も、泥臭く生きてやる。