「発達障害グレーゾーン」って概念の使い方にはコツがありそう / 障害受容日記#6
「発達障害グレーゾーン」っていう表現に、最初はモヤモヤがあった。
けど、最近、「グレーゾーン」って言葉の使い方にはコツがありそうだ、と納得する出来事があって、なんだかポジティブに捉えられそうだ。
そんな狭間の気持ちを書き留めておく。
フタバと "診断"
そういえば、診断遍歴は以前にも書いたことある。
これは「削除!」になる前の文章。
この「削除!」事件をきっかけに、
主治医からみて私の症状は「診断が必要な状態と、不必要な状態と、を行き来できるくらい軽いもの」なのだろうなあと考えるようになった。
私はきっと「グレーゾーン」。
ちょっと拡張して考えたら診断できないこともないけど、
少しの環境調整で困らなくなって軽い工夫でカバーできるような、
特段診断する理由もないような領域。
でも、本人は、社会適応のために「少しの環境調整」や「軽い工夫」を辞めることはできない。
少し「工夫」の手を緩めると、すぐ遅刻したり忘れ物したりで適応できなくなる。
被害者意識、ではないのだけれど、
他の人はさらりとやってのけるのに、私にはできないんだなあ
という感覚がずっと続いている。
さて。ここで原点に立ち返ってみたい。
発達障害の "診断" とは
精神科疾患の診断は、米国精神医学会発行「DSM-5」の診断基準にのっとって行うのが妥当とされている。
「・・・・な症状をもつ人をASDと診断します」
「・・・・な症状をもつ人をADHDと診断します」
などといった、客観的な基準である。
画像診断や血液検査のように、目で見てわかる客観性ではないものの、
「以下の症状リストのうち、*個以上あてはまれば診断する」のように客観性を担保しようとしている。
診断のための質問紙は、基準に照らし合わせやすいようにつくられているものと考えていい。
脳波やMRIなどの画像で、発達障害を診断する方法は、まだない。
研究段階でチャレンジしている人はいるが、国レベルの統一した見解は出ていない。
当事者の方の記事を拝読していると、「WAISなどの知能検査で指数の差が*以上あったから、ADHD/ASDだ」と理解されている記事があるが、
実は知能検査の検査値は「発達障害」の診断基準のなかには入っていない。
(「知的障害」の診断基準には入っている)
知能検査をやると、自分の情報処理の得意苦手を捉えやすくなり、
生きやすくなる工夫を考えていく助けになる、って意味で役に立つので、
工夫を考えるための検査なのだろう。
もちろん、除外診断として忘れてはならない大切な役割はあるが。
発達障害の治療ってなにするの
1と2は「行動変容・環境調整」。
3くらいに「服薬」がくるかもしれないが、
4も5も「行動変容・環境調整」だろう。
■行動変容・環境調整
発達の凸凹や症状で生きづらくないように、生活場面でいろいろな工夫をしていく。周りの人にも手伝ってもらう。
■服薬
行動変容や環境調整だけでは困りごとが解決しなかった場合は、
考えのまとまりづらさや集中できなさに対しての薬…*① や、
扱いきれないイライラやパニックなどに対して感情の波をやわらげる薬…*②
などを使用する場合もある。
睡眠リズム調整に難しさがあれば補助として睡眠薬を使ったり、
強い不安や抑うつ状態があれば、乗り切る助けとして抗不安薬や抗うつ薬を使ったりするのは、他の精神疾患と変わらない。
これらの症状に対して服薬をしながらも、自分がらくに生きられるような工夫をしたり、周囲に対して工夫をお願いするのは続けていく。
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知識として知ってはいたが
ここまで、いち医療職として、知識としては知っていたが、
いち凸凹人としてはうまく腑に落ちずに苦しんでいた。
「グレーゾーン」は居心地が悪い
いっそ、どっちかハッキリ言ってくれればいいのになあ、と思っていた。
黒に比べれば、白に近い。
私は「少しの工夫」で済んでいる。
めちゃくちゃ困って支援の手を必要としている人と同じくらいつらい、とはおこがましくて言えない。
生きるのにいろんな助けが必要な人は、心置きなくその助けを利用してほしい。その席を貰おうだなんて考えていない。
でも、白と言い切るには生きづらい気がする。
だって、「少しの工夫」を怠れば、一気に信頼を失って社会適応できなくなる。毎日ギリギリの綱渡りをしている。
「遅刻するのは、予定を忘れるのは、あなたのなかで優先順位が低いからでしょう」…なんてお説教された日には、つらくて不甲斐なくてしかたない。
私も、苦労なく毎日1時間前に出勤できるような人に生まれたかったな・・・
納得のきっかけ
それは、精神科クリニックの医師から聞いた、たったひとことだった。
なんて明快なんだ!単純な話だったじゃん!と叫びそうになった。
「発達障害です」と診断しても、診断しなくても、
結局「困りごと」に対しての対応は変わらないのだ。
個人の特性としての凸凹の程度にかかわらず、本人に違和感があるなら、
本人起点で構築する「工夫」や「配慮」がはじまるきっかけになる。
その「工夫」や「配慮」のアイデアを出し、実装するために必要だと思ったら、
「発達障害っぽい」という言葉を発してもいいのかもしれない。
この言葉を使わない場合も、「工夫」や「配慮」が叶いやすい社会にしていこう、という決意はいつでも心のなかに燃えている。
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よく見てる益田Drの発信のなかで、発達障害に関連する動画のリンクを貼ってみます。
お話されていることは、「精神医学」よりも
「診察室でいろんな患者さんと日々話している いち医師の所感」に近いと思いますし、
益田Dr本人もそのようなことを仰っています。
「医学」が言える範疇(≒診断基準や統計的有意差のとれる部分)
の外にも、患者さんの悩みや知りたいことは沢山あります。
「医学」の外に踏み出した発言を恐れることは「医療者としての職業倫理」を尊重する姿勢として正しいけれど、
現代においては、職業倫理の範囲内に留まり続けることが最善とは言えないのでしょう。
このあたりのことについて、腰を据えて書いてみたい気持ちはあるけれど、、
まだもう少し煮詰めていたいと思います。