「解離」……感情と記憶の冷凍保存
解離性人格障害、あるいは解離性同一性障害。
最近ではフィクションのテーマなどに多く取り上げられるテーマであり、すっかり人口に膾炙してきた名前だと言えよう。
私がこの障害を診断されたのは10年以上前、21歳の時。
記憶が飛んだり、自分の実体験に対して現実感があやふやになる症状、それに伴ううつ症状や身体機能の低下などに対して、この障害の名前を告げられた。
(私はこの呼び名が嫌いだが)まあ、いわゆる「多重人格」と呼ばれていたやつである。
この呼び名を用いると、多くの人にあっさりと話が「通じる」と同時に、フィクションなどで過大に粉飾されたその中身に、まず間違いなく誤解されてしまう。
同時にそれを自称することで「厄介な人間」と敬遠されてしまう。
一言で言えば「胡散臭い」と思われてしまうのである。
だが、実は解離はそんなに珍しいものではない。
人格障害にまで悪化してしまう例は確かに多くはないかもしれないが、さまざまな精神障害の研究が進んできた昨今、「解離」という反応が決して特殊なものではないこともまた知られてきている。
身近な例で言えば、震災を経験した人間が、苦痛が過ぎる当時の感情を認識できず、数年後にフラッシュバックやパニックを起こす……というのも解離症状のひとつである。
今回は実体験も交えながら、この「解離」と「解離性人格障害」について記してみたい(なお、筆者は単にこの障害を負っただけの一般人であり、その筋の専門家ではないので留意されたい)。
*
私がこの障害の症状を最初に自覚したのは15歳の時。中学校2限の地学の授業中だった。
何かの実験で、特定の周波の高い音を皆で聞いていた、のは覚えている。
それが何だったのかはもう思い出せないが「頭がいたい〜〜」と思わず屈んで……気がつくと日没を過ぎて帰宅途中、最寄駅のバス停に向かって歩いているところだった。
その時はなんだか夢から覚めたような気分で、時間が経っていることにも大して動揺することなく、普通に帰宅・就寝した。
翌日、それとなく友人に前日のことを尋ねても、特に誰にも言及されることはなく、どうやら私はきちんと授業に出席し、塾に行き、周りとのコミュニケーションを取っていたようだった。周りは誰も気にしていなかったし、私もそれを聞いて「問題がないならいいか」くらいでさほど気にも留めなかった。
今思えば、深く突っ込んで考えるのが怖かったのかもしれない。
こういったことが頻発するようになったのは、受験が忙しくなった17歳の時以降だった。
たいていは時間も短く、せいぜい2時間程度だが、多い時には週に1度くらい記憶がなくなることがあった。そしてその前後には決まって頭痛を催した。
不気味に思わないわけでもなかったが、当時は受験ノイローゼ気味で、とにかく「細かいこと」を考えている余裕がなかった。
ただなんとなく、「ヤバい気がする」とは思っていた。
高校3年生の秋、軽い熱が出たことで持病の再発が疑われた私は、1週間ほど入院による経過観察を受けた。
※持病に関してはこちら。
幸い持病の再発ではなかったようで、熱も下がって退院したのだが……
入院する前まで毎日14時間以上の受験勉強をしていたのに、突然ぽっかりと1週間、何もしない時間ができたことで、緊張の糸が切れてしまったのだろう。それまでなんともなかった場所で、頻繁にパニック障害を発症するようになってしまったのである。
退院の翌週、塾の授業中に初めて息苦しさに涙が止まらなくなってから、学校の授業中、バスの中、電車の中など、「すぐに抜け出せない」「人目がある」「時間の拘束がある」といった場所で息が苦しくなるようになった。手足が冷たくなり、恐怖で心臓が高鳴り、涙が溢れてくる。涙を流すと少し楽になるが、息苦しさはその後も波のように押し寄せて、大抵はその場を中座する羽目になった。
精神科を何ヶ所か回り、「パニック障害」「過呼吸」「自律神経失調症」と似たようなことを言われて、安定剤を何種類か出された。
しかしそれらの薬が効くことはなかった。息苦しさや恐怖感が薄れることはなく、私は高校をぼろぼろと欠席し続け、大学受験どころではなくなった。
家で休んでいる時でも終始息苦しさは続き、特に夕方は辛かった。
中学時代はコーラス部に所属し、歌うことが大好きだった私だが、こうなってからは苦しくて歌えなくなってしまった。
ソリティアをプレイし続けてなんとか時間をやり過ごし、溢れ出る恐怖に涙を流すことが、一番楽になれる方法だった。
1ヶ月、2ヶ月と時間が経っても、不安感や恐怖、息苦しさが治まることはなく、高校卒業を目指してなんとか授業に出席する日々。
友人や教師からは腫れ物に触るような扱いをされ、家族からも失望され、それでもそんなことを気にする余裕もないほど毎日が苦しかった。
朝から晩までうまく息ができないのだから、文字通り苦しいという他はない。
病院へ行っても医者はおろおろと当たり障りのないことを言うばかり、薬も全く効かない。
それまで持病の関係で病院や医者に対して置いていた全幅の信頼が、日に日に失われていくのも辛かった。
雪の降る日に死ぬ気でセンター試験を受け、這うような気持ちで元からの志望校を受験するところまで持って行ったが、二次試験の途中から高熱を発熱し、本受験2日目の最終科目を受け切れなかったことで、私の長かった大学受験生活は終わった。
高校を卒業した途端、過眠になった。
朝起きて朝食を食べて眠り、昼前に起きて昼食を食べて眠り、夕方2時間ほどだけ勉強して夕食を摂り、少し動画サイトなどを見て眠る。毎日総計15時間以上は寝ていた。
起き抜けもびっくりするほど力が入らず、起き上がるのに多大な力を要し、起きている間は相変わらず息苦しさに悩まされた。
市立病院は私の改善されない症状に匙を投げ、大学病院に紹介してくれたが、そこでも薬は効かず、「境界例」と「鬱病」のグレーゾーンとの診断(?)を受け、マイナー(抗うつ剤)を服薬することになった。
これがまた曲者で、全く楽にならないどころか、頭は常に重く、吐き気はするし、不安感は減るどころか増した気すらするし、何より楽しいことも何も感じなくなってしまった。
パキシル(ポピュラーな抗うつ剤の一種)があまりに辛くて合わなくて、ジェイゾロフトという新しい薬に変更してもらってもみたが、それもあまり効果がなく、浪人とも言えない高卒1年目は、ほとんどを眠って過ごしたと言える。
起きていた間のことも、今ではあまり記憶が残っていない。家族の反応すら思い出せず、軽く人格荒廃していたような日々だった。
高校を卒業して2年目、相変わらず楽にならない(というより大学進学できない)私を見兼ねた母の発案で、とある大学の研究室で心理カウンセリングを受けることになった。
以前記事にした「3つのF」を教えてくれたのがここのカウンセラーだったのだが、それまで病院を転々としてもわからなかった様々な症状について、原因を教えてくれることになった。
※「3つのF」についてはこちら。
週に1回のカウンセリングでそれまでの半生や日常生活、困った症状などを語る中で、カウンセラーが殊更険しい反応を示したのが、はじめに書いた「記憶がなくなる」「なくなるが普通に生活している」という症状についてだったのである。
カウンセラーはストレートに私に尋ねた、「自分の中に自分じゃない人がいる感じがするか」と。
私はそれまでそんなことを考えたことはあまりなかったが、軽く脳内を模索し、感じたままに「うようよいる感じがします」と答えた。
もうこれは全く感覚でしかないので「そんな馬鹿な」と思って下さって結構なのだが、その時私は自分が250個くらいに分裂している感じがしたのである。
自分じゃない人がいる、というほど遠くはないが、明らかに今喋っている自分とは「異なる」感じがたくさん。イソギンチャクのようにうようよと分裂しているイメージ。
そしてそれぞれが脳内で勝手なことを喋っているようなうるささが常にあって(この声が命令してくるとかいう場合は、統合失調などの可能性があるらしい)、そのうるささに着目し意識を向けると酷く頭痛がするのだった。
この訴え以降、カウンセラーは私を「自律神経失調症の子」から「解離性障害の(疑いがある)子」という扱いで診察するようになったようだった。
*
この頃私は情緒がひどく乱れて不安定だった。何かに突然苛立ったかと思えば号泣し、謝り出したり逆ギレしたり、過呼吸を起こしたり。嫌な過去を反芻して心地良くなったり、死にたいと言い続けたかと思えば慈愛に溢れたハッピーな気持ちになったり。
それぞれの感情の間には連続性はあまりなく、記憶はあるが、次の感情に移行した後は、それ以前の感情の理由や感覚は思い出せない。自分でもなぜそんなに感情が荒ぶっているのか、当然理解できない。
誰彼構わずにこんな感情を表現していたわけではないが、仲良くなりかけた人には距離感がおかしくなりがちだったし、当時付き合った人たちは辟易していただろう。
カウンセラーだけが命綱であったとはいえ、カウンセラーには週1のカウンセリングでしか頼れなかったため、私は依存のために恋人を欲していた。
当時流行り出したばかりだったSNSで何人かと出会い付き合ったが、そんな歪んだ状態だった私は、どの人にも真っ直ぐ向き合えた記憶がない。
彼らは皆、私と同じ方向に病んでいたか、私を憐んでいたか、私を持て余していた。
たいていの恋人に言われたのは「君は時々別人みたいになる」というような内容だった。言葉遣いが変わったり、気の持ちようが鬱状態から超前向きになっていたり、普段なら寝ているはずの深夜に突然電話をかけたり、幼児退行のようになったり……そんなことを時々言われた。
そしてそう言われている時の自分に関しては「ほとんど覚えがない」か「覚えがあっても現実感が薄く、他人事のように感じる」という印象で、そのせいで真面目に取り合うこともなく、恋人関係が悪化する原因になったことが多かったように思う。
感情面以外にも、たとえば夢見が異常に悪い。血みどろのグロテスクな夢ばかり見て、起き抜けは全身が硬直して手足を動かせるまで時間がかかったりする。
幻覚というほどではないが、白昼夢的な見間違いや思い込みも増え、夢との境が曖昧な朝に「階段の下で自分が死んでる」と言って泣いたりもした。
自我の同一性が揺らいでいるからか、鏡や写真が薄気味悪くて苦手。なるべく映らないように逃げてしまう。
自分の病んでいた点を書き出せばキリがないのだが、とにかく感情の浮き沈みが大きく、自罰的なくせに他責な言動に寄りがちで、常に恐怖や不安に駆られながらも飄々としている……という矛盾だらけの状態が常態となり得るほどに、私の記憶は断裂していたし自己意識は希薄だった。
結論から言えば、これらの根本の原因はPTSDにあった。
以前、遭ったことのある性被害について触れたことがあるが(以下のリンク参照)、そういった外部からの被害に加え、数えきれない母親(と祖母)からの虐待によって、私の人格が大きく歪んでいたことを自覚し始めたのは、カウンセリングを受けて半年以上経ったあたりからだ。
それまで私は、自分の人生を概ね「一般的」で「普通」で「安定した」ものだと思っていた。小学校4年の頃に一度両親が離婚しかけて(父の浮気が原因だったが結局再構築することになった)、小学校6年の時に大きな病気をしたものの、それ以外は比較的恵まれた家で、なんだかんだ言っても家族にも愛されて育ってきたと思っていた。
「普通の家」では両親は同じベッドで眠るものだということ(当時母親は一人でダブルベッドで眠り、父親は床で犬と一緒に寝ていた)、「普通の家」では母親が持ち出した包丁から逃げてトイレに立て籠ったりしないこと、「普通の家」では娘が病気で嘔吐している時に母親が「食材が勿体無い」と言って拳骨したりしないこと、「普通の家」では娘のバイオリンの練習時、母親が矯正と称して剣山や画鋲で腕や指や爪を刺したりしないこと……そういった「当たり前」を諭されたのも、カウンセリングの場が初めてだった。
「それは虐待だよ」とカウンセラーは言った。
私は「でもそんなにつらくなかったです」と答えた。
「それが解離です」とカウンセラーは溜息を吐いた。
私の母親は、パニックを発症した後の私よりも、常に不安定な人だった。我が家では唯一、「美醜」や「ママ友カースト」や「選ばれたOL」的な俗っぽい価値観にまみれた人で、父の金で200万のブランドコートを買い込んだり、祖母(父の母)からの仕送りで株に手を出して大損したり、それでいて「家計を管理する良妻賢母」を目指して私や弟に英才教育を施し、結果先述のような暴力で子供を従わせるような有様だった。料理はレパートリーが4つくらいしかなかったが、たまに孝行気分で私がおかずを買って帰ると「私の料理が気に入らないならそう言えばいいじゃない!」とヒステリーを起こして泣きながら寝室に篭るようなこともしょっちゅうだった。
大して美人ではなかったが、二重のプチ整形(とはいえ昭和の時代には大ごとだ)をしたり厚化粧したり、元職場の上司(男性)と二人で食事に行ったり、そのくせ私には整形をするなと念を押し続けたり、彼氏ができたら「人の道に外れている」と声を震わせながら泣いて怒ったり……娘の私から見れば「理不尽で気色悪い」人でもあった。
同性であり、自分より若い娘の私に嫉妬し、「胸がCカップになったから一つ大きいブラが欲しい」と言えば「そんなのは無いのと一緒だ」と鼻で笑い(母はFカップくらいあった)、「ささくれができた」と言えば私の手の甲を撫でながら「家事をしていない綺麗な手だね」と笑う人だった。
掛け値なしの毒親である……が、当時はまだ毒親という概念は世に出始めたばかりで、母の異常さを人に伝えるのはとても難しかった。何より母は外面が良かったので、私自身ですら「母にも優しいところもある」と庇ってしまい、どうしても強く反抗することができなかったのだ。
そんな母が私にしていたことが虐待だ、と言われても、私はそれを「つらい」「怖い」と思うことができなかった。
苦痛のはずの思い出ひとつひとつのストーリーは口にできても、それはどこか「他人事」のように薄皮一枚向こう側にある出来事で、自分の心や体にダイレクトに響いてこないのだ。
「解離」というのはそういうものなのだという。
最近では戦争帰還兵や災害生存者の症状として有名だが、要するに「つらすぎる経験をした時に感覚を切り離し、恐怖や苦痛の感情を感じなくなってしまう。あるいは記憶自体なくしてしまう」ことにより、「その経験のずっと後になって、その時に感じるべきだった自然な感情や記憶がフラッシュバックし、大きな苦痛となって日常生活を妨げる」症状である。
(症状とは言っても、「3つのF」の記事でも紹介したように、動物なら当たり前の反応でもある。)
私がパニックを起こす時、あるいは恋人とトラブルになる時、溢れ出す理不尽なまでの恐怖や怒りは、そのフラッシュバックのひとつなのだ、とカウンセラーは言った。
心身の中に蓄積された解離の記憶が、何か些細なきっかけで飛び出してくる。それによって、目の前で起こっていることに対する感情よりも、何倍も大きな感情が過去の記憶から破裂して溢れ出てきてしまい、日常生活に異常を来すのだ、と。
例えるなら、解離は感情の瞬間冷凍である。感情を受け入れ経験することを食事とするならば、食べる時間がない時に瞬間冷凍したものを、時間ができた時に、解凍して食べるのがフラッシュバック。だがこの解凍も基本は瞬間的で、しかも無意識下で行われるので、当事者はパニックになってしまう。
これを自分の意識のもとで、時間をかけて向き合いながらゆっくり解凍し咀嚼するのが、この解離症状の治療であり、カウンセリングなのだそうだ。
ちなみに、この解離による凍結があまりに反復されたり量が増えることによって、その時の感情を持った部分が、普段生活している人格と別個に行動をし始めてしまう(わかりやすい目印は記憶の連続性があるか否か)と、これが「解離性人格障害」である。
人格の分離とは言っても、自分の経験から考えると、必ずしも「ジキルとハイド」のようにはっきりと性質が分かれているわけではなく、パンだねを伸ばしながらいくつかに分ける時のように、グラデーション的に連続した部分が減っていくような分かれ方の方が多かったように思う(もちろんいくつかは完全に分裂し、名前を名乗ったりもしていたが)。
だからカウンセリングでは、いわゆる「多重人格」の治療でよく聞く「統合」というようなやり方ではなく、解離が起きてしまった原因であるPTSDの治療に重点が置かれた。
時間をかけ、カウンセリングルームが「安全な(=理不尽な加害の起らない)場である」ことを意識しながら、溢れ出す恐怖や苦痛と向き合うと、自然とその記憶は「薄皮一枚向こうの他人事」ではなく「自分自身の経験の記憶」へと変わっていった。
治療の途中で過敏性腸炎を発症し、強い苦痛の記憶に触れると、耐え難い腹痛の発作に襲われるようになったりもした。その発作の最中も必死に自分を宥めすかし、「安全」を言い聞かせ、混乱した脳内からフラッシュバックした記憶の当時に感じた自分の感情ーー怖かった、辛かった、悲しかった、助けて欲しかったーーを拾い上げて涙すると、すうっと痛みが治まっていくようになったのである。
このような受け止め方が他の人でもよくあることなのかはわからないが、私はその後数年間、こういった治療を繰り返して、ばらばらになった感情を拾う作業を続けることになった。
このような治療を繰り返し5年以上経つ頃には、私の自己認識は大きく変わった。自分の家庭環境は決して「普通」ではなかったこと、母親が「かなり異常」の部類に入る不安定な人間であったこと(自己愛性人格障害と言えるらしい)、自分の幼少期は「辛いこと」の連続で「惨めなもの」であったこと……。
その多くの事実は悲しく受け入れ難いものであったが、それを少しずつ咀嚼してなんとか受け入れていくにつれ、不安定な感情の揺れ動きや理不尽な暴発は起こらなくなり、よく見えていなかった自己像が見えるようになり、自分の決断に迷うことがなくなっていった。
分不相応な背伸びや無理をすることは減り、人付き合いも穏やかなものを選べるようになり、苦痛を避けて自分を大事にすることができるようになったのである。幸せとはこんなに穏やかなものだったのか、と驚く毎日。
もちろん薬は飲まなくて済むようになったし、頭の中がうるさいことも、記憶をなくして行動することもすっかりなくなった。
治療を始めた頃は半信半疑、怯えてばかりの濡れ鼠のようだった自分が、今こうして穏やかな生活をできているのは、この5年間の膨大な治療の積み重ねがあればこそである。
何度も迷って諦めそうになったが治療をやめずに続けて良かった……と思う反面、それは私だけの力ではなく、カウンセラーの話を聞いて責任を感じた父親がカウンセリング代を払ってくれたり、母親に内緒で私の不動産屋巡りを手伝い、一人暮らしを許してくれたり、最終的に母としっかり向き合って離婚を決意したりと、とにかく苦心してくれたおかげでもある。運が良かったと言わざるを得ない。
毒親家庭で当事者と関係を断ち、「安全な環境」を手に入れるのは、治療においても死活問題なのだ。
治療によって私の人格障害は寛解した。
とはいえ、幼少期の発達段階でばらばらになった人格(意識)は、そう簡単にくっついて終わり……とはならない。物理的な脳の発達過程の問題であろうから、「統合」なんて綺麗な終わりを迎えるのは土台無理な話なのだ。
今でも極度のストレスに晒されると頭の中が猛烈にうるさくなり、あの頭痛に見舞われることがあるし、いくつかの記憶に関してはあまりに解凍が難しく、半永久凍結のまま放置している部分もある(これは時が来るまでこのままで置くことを自分で選んだ)。
それでも、普通の生活をしている分には問題はない。過敏性腸炎や自律神経の狂いは今でも完治していないので、すっかり「身体の弱い人間」にはなってしまったが、やりたいこともやれているし、友達もいるし、穏やかな結婚生活を送れているし、海外旅行だって行けるし、十分に幸せである。
だから、「寛解」。
おそらく私の中の「ばらばら」は生涯ばらばらのままだが、ばらばらなりにみんなが同じ方向を向いていれば、「私」という人生を生きるにあたって大した問題ではない……そう思うことにしている。
ここに書いた私の経験は、同じ障害を抱えた人にとっても「一般的」ではないかもしれない。だが、もしかしたら似た過程や症状を経験している人はいるかもしれない。同じように苦しんでいる人もいるかもしれない。
そんな、今まさに苦しみの中にいる人が、これを読んで少しでも希望を見出してくれたら……そんな想いで公開することにする。
なお、一般的な解離性人格障害については、以下の作品で詳しく取り扱われている。専門書ではなくフィクションなのである程度の脚色は入るが、そんな中でも丁寧に書かれたこの作品は、その分読みやすく、当時の自分にとっても大きな理解の助けとなった。
ここに感謝の意を示したい。
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