あなたのための物語/長谷敏司
誰もが絶対的に一度しかできない「死」という体験を、そこに至るまでの戸惑いや葛藤まで引っくるめて書ききった作品。
そして本書を傑作たらしめているのは、その死へ向かって過ぎゆく人間の生命の熾火と同時進行で、作り上げられた仮想人格が小説を書くことに挑むというSF要素をうまく展開させ絡めている点。
とりあえず裏表紙に記載のある粗筋をそのまま引用してみます。
西暦2083年。人工神経制御言語・ITPの開発者サマンサは、ITPテキストで記述される仮想人格≪wanna be≫に小説の執筆をさせることによって、使用者が創造性を兼ね備えるという証明を試みていた。そんな矢先、サマンサの余命が半年であることが判明。彼女は残された日々を、ITP商品化の障壁である"感覚の平板化"の解決に捧げようとする。いっぽう≪wanna be≫は徐々に、彼女のための物語を語りはじめるが……。
ここで出てくる「平板化」は、喜怒哀楽や感激といった心の動きが全く無くなり、何を見聞きしても無感動で無気力になってしまうこと。
ITPを脳に施す事で仕事の生産性を飛躍的に向上できる。当初は先進的な技術と言われたものの、使用によってそんな副作用が出てくるなら一般流通など社会が認めるわけがない。
そこで「ITPによって創造された仮想人格が小説を書く」という創造性発揮の成功事例を示したい企業と、その企業に勤める科学者。
……こうして前提を抜粋したらディストピアそのものに感じられるかもしれないね。だとしたらそれはわたしの力不足です。この物語の本質はそこじゃない。
有限の肉体をもって生きるわたしたちが、いつか必ずたったひとりで向き合わないといけないこと。それをサマンサの絶望や葛藤、時には人間の尊厳に関わることまで含めて、思いを馳せるきっかけをくれる。
全部で427頁。
427頁かけて語られる、死を思う半年間。
心が弱ってる時には重い読書になるだろうし、身近な人を亡くされたばかりだとつらい場面もあるかもしれない。でもやっぱりこういう、一度しかできないことを疑似体験させてくれるような小説って凄いなと思うわけです。必要なもの。
わたしは無宗教なのでサマンサに対して感じ入る場面も多々あったのだけど、信仰を持つ人ならまた違った見方になるんだろうな。
AIが小説を書く、という事も現実に行われているわけですが。
途中で明かされる"感覚の平板化"の原因には思わず膝を打ったし、現実にAIが書く小説を読んでみたいとも思いました。
そこをどんなふうに超えてくるんだろう、という純粋な興味。
サマンサと≪wanna be≫の交流がもたらす、別々の存在で分かり合えないから理解できる、という事例の提示も素晴らしい。
なかなか気力が必要なので再読するかは分からないけどそれでも手許には置いておきたい、と思える稀有な一冊でした。