海を越えて来た陶芸家 沈壽官窯:美山 鹿児島県日置市
九州には全国的に知られた窯元がいくつかあります。その源流の多くは、400年ほど前の豊臣秀吉(1537-1568)による唐入り(朝鮮出兵)に端を発しています。
秀吉は出兵する九州の大名に、技術を持つ陶工を日本へ連れて帰るよう命じます。唐入りが焼き物戦争と呼ばれた所以です。
肥前佐賀の鍋島(龍造寺)家、肥前平戸の松浦家、肥前唐津の寺沢家、
豊前中津の黒田家(後に筑前福岡へ)、そして薩摩の島津家等々。
それぞれの窯元には栄枯盛衰ありますが、技術は現代に伝えられています。
今回の窯元がある日置市は薩摩半島の真ん中あたりにあり、人口は46,000人の小さな市。鹿児島市(580,000人)の西隣に位置しています。
島津家とは
島津家は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝(1147-1199)より薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護に任じられた島津忠久(1179-1227)を祖とする、鎌倉以来のチェストな武家。
室町期には分家や庶流と枝分かれしていて、守護家や惣領家が必ずしも絶対的権力を持っていたわけではありませんでした。そう中世の武家らしく、力を伴ってこその権威と正義の世界。
戦国時代に分家の伊作家に生まれた忠良(日新斎:1492-1568)とその子貴久(1514-1571)は、次第に島津家を掌握して他の国人衆を従え、守護大名から戦国大名へと脱皮します。
また忠良さんプロデュースによるいろは歌(島津流教育論)は、薩摩独特の郷中教育のベースになっています。
南九州を掌握した島津家は、九州を北へと勢力拡大を図ります。
当主は16代島津義久(龍伯:1533-1611)。15代貴久の子で四兄弟の長兄。もう少しで九州全土を勢力下にという時に、彼らに立ちはだかったのが秀吉。その圧倒的な兵力の前に、義久は頭を丸めて秀吉の軍門に降ります。
豊臣大名となった島津家は、秀吉の唐入りに従軍します。島津軍を率いたのが四兄弟の次弟島津義弘(維新:1535-1619)。兄の九州統一を助け、野戦能力はずば抜けていました(他に三弟歳久:1537-1592 、末弟家久:1547-1587 と優秀な弟がいましたが、唐入り前に死去)。
ちなみに島津家は武芸に秀でた家と評されますが、義久は細川幽斎(藤孝:1534-1610)から和歌の古今伝授を受け、義弘は千利休(1522-1591)や古田織部(1543-1615)から茶の湯を学び、武芸一本鎗ではありません。
そして義弘が唐入りで朝鮮半島から連れ帰った陶工たちが、薩摩焼の源流となります。ただし陶工たちの待遇は、良い事ばかりではなかったようです。
朝鮮渡来の陶工たちは堅野系、龍門司系、苗代川系と3つの系統があり、苗代川系(現在の日置市美山)の窯元の1つが沈壽官家です。
薩摩焼には日常使いの黒薩摩と薩摩藩御用窯で作られる白薩摩があり、幕末の苗代川には、陶器と磁器両方の御用窯があって発展しました。
沈壽官窯
鹿児島県日置市東市来町美山1715
2023年に足を運んだのは、偶然にも美山窯元まつりの日。当日現地で知って、観光客が溢れているのではとビビりながら門をくぐりました。また駐車場で気になったのがロケバスらしき車。
沈家の初代は当吉さん、義弘に朝鮮から連れてこられた人。
幕末期に生まれたのが12代沈壽官(HPには天才と!)。そして以降の当主は沈壽官を名乗っています。現当主は15代目(本名:大迫一輝)。
ちょっと変わった表記が掛かっています。実は14代と15代の沈壽官さんは、駐鹿児島韓国名誉総領事に任命されています。というわけでこの建物は総領事館なのです。
こちらは沈家伝世品収蔵庫というミュージアム。「収蔵庫」は司馬遼太郎による揮毫、原本は館内に掛かっていて、14代が司馬さんから贈られたモノ。
館内は撮影禁止。沈家歴代の作品や交流のあった作家たちとの手紙等の歴史資料が展示されています。
参考に三の丸尚蔵館(東京都千代田区)で展示されていた作品を。
宮内省(当時)が12代沈壽官にオーダーした花瓶と香炉は、明治宮殿のマントルピース上に飾られていたそうです。無数の菊の彫刻が貼り付けられています。超絶技巧は一目で分かりますが、デザイン過剰で個人的には好みではありません。
ミュージアムから出てくると何やら人が集まっています。少しイヤな予感。
そしてあるオバチャンが「芸能人がいるー!」と連れを呼びに。
先ほど閉じていた領事館の玄関前では、ビーマイベイビーな人が15代沈壽官と何やらお話し中。スーツの人が15代(HPのごあいさつの人)。
実はここへ足を運ぶのは2度目で、初めて来た時も15代さんを目撃しています。その時はTシャツに短パンとラフなスタイルで窯のあたりをウロウロ。
ロケバスの方々はおまつり担当ではなく、たぶんこの取材。それより領事館の玄関が開いている方が気になります。
状況は分かったのでお邪魔しないようショップへ。
黒薩摩はいいなーと思いつつも、使う機会がないという現実。花瓶や茶碗は頑張れば手が届きそうでしたが(買わんけど)、茶入れはなかなかのパンチが効いた値札がついた15代の作品。
旅先でモノを買う事はあまりないのですが、お皿がいいなと見ていると、スタッフの方に声を掛けられました。
色で悩んでいると、2色とも味わいが違うのでオススメです!と。
バイクだからなーと言うと、宅配で送れます!と。
でも黒だけでいいかなーと言うと、青釉のヒビ割れのような模様は同じモノが2つとないので在庫の中からチョイスする楽しみもありますよ!と。
営業トークに隙のない沈壽官窯。また当主さんの作品と比べると桁が違うので、リーズナブルに見えてしまうマジック。
実際の登り窯はショップのお隣にあります。
門の脇にあった石敢當(当)がなんの事か分からず調べてみると、中国由来で沖縄や鹿児島に多く見られる魔よけの石碑だそうです。
司馬遼太郎:街道をゆく
収蔵庫にゆかりの品々が残っているように、司馬遼太郎さんはココを訪れています。14代沈壽官(先代)さんとは親交があったようで、街道をゆく第3巻にはその模様が記されています(14代さんは何度かほかの巻にも出ていたように記憶)。
そして司馬さんは、14代さんを典型的な薩摩隼人のように捉えています(同行者の須田画伯もそのように認識)。
街道をゆくは20世紀の風土記のようで、各地のガイド本として参考にしています(読み始めたのは司馬さん没後。観光ガイドにはややディープかも)。
後日、さきほどのロケはシン・街道をゆく(視聴料を集める放送局の番組)だったコトを知ります。ビーマイベイビーの人と15代の、領事館(おそらく)での対談風景や収蔵庫での見学風景が収録されていて、全容を知ったのは2ヶ月後。結果的に印象強めの沈壽官窯になりました。
朝鮮渡来の陶工の人々は士分として遇される一方で、半島の生活様式や文化を維持するよう藩から命じられています(選択肢はない)。
沈壽官家は、薩摩の地でその伝統を400年間守り続け、日本人にはその気質を薩摩隼人のように思われ、21世紀の現在では韓国との橋渡しの役割も期待されています。そんな人たちが薩摩以外にいるのでしょうか。