死ぬのが怖い人へ (2)
死の問題を解決しようと決意した私は、様々な本を読みました。小・中・高・大学と、手がかりになりそうな本を探し続けました。周りの大人が死の問題について教えられないのならば、本の世界で探せばよいと考えたわけです。
小学生の頃は図書館に入りびたって、みんなが読むズッコケ三人組や怪傑ゾロリから偉人伝、まだよく理解できない哲学の本まで、とりあえず開いては目を通すことをくり返しました。
中学生に入ると友人から椎名誠の本を借り、面白さもあってさらに読書を好きになりました。
高校では友人から村上春樹の『風の歌を聴け』を借りて、そのオシャレな文体に夢中になりました。他に山田詠美・村上龍・北方謙三など、人気作家の本を一通り読みました。
なぜ文学を多く読んだかというと、何度か「人生を考えるなら文学を読め」という言葉を目にしたからです。
しかし実際には、どれだけ小説を読んでも死の問題を解決するヒントは見当たりませんでした。
もちろん「人生の意味」をテーマにした本も読んだのですが、生の意義については論じてあっても、死後まで視野にいれたものはほとんどない。それは生きている間のことであって、死後がこわい私には物足りなかったです。
前回の記事でくわしく書きましたが、私にとっては死後が不明であることが最もこわく、しかも科学が発達した21世紀になっても死後について何も判明していないことが問題でした。
また存在や時間について哲学的に理屈で論じた本もありましたが、それらも死後の不安要素(※前回を参照)までは解決できそうにありませんでした。
ニーチェとの出会い
ひたすら本に答えを求めつづける中で、最初に手応えを感じたのは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)というドイツの哲学者でした。
彼の考え方で興味深かったのが、
・全ての出来事は何度もくり返されるものである(永劫回帰)
・そこに意味を見出せる者になるべき(超人)
この2点でした。
これを死後の問題に応用してしまえば、解決できるかもしれない。
つまり、たとえ死後の不安要素があったとしても、そこに意味を見出せるようになれば、何も問題はないといえる。死後にどれほど苦しい目にあうことになったとしても、またそれが何度もくり返されたとしても、そこに意味を見出せればいいわけです。
そのような超人になれれば、人生にも死後にも問題が無くなるでしょう。素晴らしい理論だと思いました。
しかし・・・いくら理論が優れていても、実践できるかどうかはまた別です。
ニーチェ自身は晩年に発狂してしまい、精神病院に入れられて55歳で死亡しています。
もしも彼自身が提唱する「超人」になれていたならば、ニーチェは発狂しなくて済んだのではないか?
それに「永劫回帰」という考え方にしても、もしも死後に耐え難い苦痛が待っているとしたら、何度もそんな苦痛を味わいたくない。
そう考えた私は、とても自分は超人にはなれない、と思いました。
先輩を探そう
ニーチェの哲学を知って分かったことは、いくら理論が素晴らしくても、私自身が救われなければ意味がないということでした。
私は凡人です。特に天才とよべる部分もありません。
そんな凡人が死後の問題を解決するには・・・「そうだ、先輩を探そう」と思いました。
先輩、つまり先に死後の問題を解決した人です。
実際に死後の問題を解決した人がいれば、もしくはそういう人の記録が残っていれば、私もおなじように死後の問題を解決できるかもしれない。
何かに成功するためには、まず成功した人を真似しなさい、といわれます。
私はお手本となる人物を探すようになりました。
禅宗の見性、浄土真宗の妙好人
しばらく西洋哲学について調べましたが、私が死の問題を解決できそうなものは見つけられませんでした。
図書館で目についた本はだいたい手にとったし、もうこれ以上手がかりになりそうな本はないんじゃないか、そもそも死の問題は人間には解決不可能なのかもしれない・・・とあきらめかけた時期もありました。
しかしその後、大学時代に知ったのが禅宗の高僧、そして浄土真宗の妙好人(みょうこうにん)でした。禅宗と浄土真宗はどちらも仏教の一派です。
仏教では厳しい修行によって悟りを開く、というのは聞いたことがありました。しかし実際に悟った人を見たこともなかったので「悟りというのも理論だけであって、私のような一般人が実際に得られるものではないだろう」と考えていました。
しかし詳しく調べると、禅宗の高僧の残した言葉、そして浄土真宗の妙好人の記録には、心の底から驚かされるものがありました。
※妙好人とは特に素晴らしい信仰世界を体現した人のこと。
たとえば曹洞宗の良寛には「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉があります。死ぬ時には死ぬのがよい・・・この言葉を知った私は、そんなバカな、と思いました。死ぬのはこわいし、死後も不明だし、どう考えても死にたくない。なのにこの禅僧は「死ぬ時には死ぬのがよい」と言ってのける。
また浄土真宗の妙好人・庄松(しょうま)には「どこにいても、寝ているところが、極楽の次の間(ま)だ」という言葉があります。浄土真宗では死後についても教えるのですが、庄松からはいつ死んでも大丈夫だという絶対的な安心感がうかがえるのです。
とくに妙好人たちの言葉には、死後に対する大きな安心を感じさせるものが多く残されていました。
これは私には意味が分かりませんでした。なぜなら死後は100%不明であって、不安を感じることはあっても、安心を感じることはとても難しかったからです。
私がどうしても解決したかった死の問題に対して、彼らは答えを得ているようでした。
なお、彼らはある精神的な変革を経て、死の問題すら障害とならない世界へ入っていました。それを禅宗では見性(けんしょう)といいます。浄土真宗では獲信(ぎゃくしん)とか他力信心を得るなどといいます。
宗教への警戒心とノーベル賞候補・鈴木大拙
禅宗と浄土真宗に興味を持ったのですが、私は最初、警戒心も持っていました。
なぜなら「宗教」だからです。
私の思春期には、あの有名なオウム真理教がメディアをさわがせ、地下鉄サリン事件が起きたのです。
そのため「宗教=怖いもの」という先入観は、私の頭の中にしっかり根付いていました。
いまから考えれば、伝統仏教であり歴史もある禅宗・浄土真宗は、新興宗教で反社会的なオウム真理教とは大きくちがうものだったのですが・・・。
そんなときに知ったのが、ノーベル賞候補にもなった鈴木大拙の本でした。
鈴木大拙は禅宗を海外に広めたことで有名ですが、その彼が浄土真宗の妙好人に対して、禅宗の高僧と並ぶほど高く評価していたのです。それは日本的霊性という本にくわしく書いてあります。
あとで調べてみると、浄土真宗は人気が高く、いろんな作家や思想家が本で取り上げている宗教でした。
(左から吉川英治、柳宗悦、三木清、西田幾多郎、吉本隆明、亀井勝一郎)
たとえば五木寛之の『親鸞』、吉川英治の『親鸞』、倉田百三の『出家とその弟子』など、有名な小説家によって作品が生み出されてきました。
また哲学者や評論家や思想家なども、浄土真宗についての本を書いてきました。西田幾多郎、柳宗悦、三木清、亀井勝一郎、吉本隆明、梅原猛、内田樹など・・・。これまで多数の本が出版されています。
それまで私には、
オウム真理教=宗教=こわい
みたいな単純な式が頭の中にあったのですが、あれはオウム真理教がひどい事件を起こしただけ。同じ宗教といえども、もしかしたら禅宗とか浄土真宗には、なにか私の問題を解決してくれる教えがあるのかもしれない。
そう思うことができて、私はさらに一歩ふみ出すことになりました。
死の問題を解決する条件
さて、禅宗と浄土真宗を深く知ろうと決心したのですが、まず死の問題を解決するには、以下の2条件を満たす必要がある、と考えました。
・死後に対する不安が解決されている
・それが死ぬまで崩れない
ついでにいうならば、私のような凡人でも可能である、というのが前提です。いくら理論が素晴らしくても、私が救われないのならば、絵に描いた餅と同じです。
これらを満たすものが必要でした。
獲信した人はどこにいる?
禅宗ではまず、見性体験を得た人を探しました。先に問題を解決した先輩がいるならば、その人から直接話を聞くのが近道だと考えたからです。
ただし見性を得たかどうかは、他人の目からは分かりません。
いくら悟っているように見える人でも、本当に悟っているかどうかは分かりません。
禅宗には昔から「野狐禅(やこぜん)」といって、正しい見性を得ていないのに、自分は見性体験を得たと思い込む人もいました。そのような人に引っかからないよう、慎重に指導者を選ぶ必要もありました。
内山興正という僧侶の著作『坐禅の意味と実際』を読んで、この人は信頼できると感じたのですが、残念なことにすでに亡くなっておられました。結果としては、見性体験を得た人を見つけることはできませんでした。
浄土真宗においては、妙好人のように獲信した人を探していました。
実をいうと、禅宗よりも浄土真宗の方に希望を抱いていました。なぜなら浄土真宗は一般人のための宗派だからです。
禅宗では宗教的才能に溢れた僧侶、たとえば一休さんのような人が見性を得ていました。しかし浄土真宗では、農民や大工や主婦といった人々の獲信の記録が残っていたのです。
一般人である妙好人が、死後の不安を解決している。ならば私にも死の解決ができるかもしれないと思いました。
その後、いくつか浄土真宗の寺院や集まりに参加し、お坊さんの法話を聞くようになりました。
現実の厳しさ
このようにして私は情報収集をし続けて、浄土真宗に可能性があるところまでは行き着きました。
しかしその間にも、人生の現実を思い知らされることがありました。
高校の恩師(数学教師)が癌にかかり、お見舞いに行ったことがあります。以前は体中からエネルギーが感じられる力強い男性だったあの先生が・・・病院のベッドで何本も管をつながれて、意識を無くして枯れ木のような体になっていました。
人はいつ死ぬか分からない。いくら元気だった人でも、少し時間がたてば、どうなるか分からない。
現実のあまりの厳しさに「とにかく急がないといけない。死後に不安要素があるというのは、誰も代わってくれない、私自身の問題なのだから」と決心させられた出来事でした。
(次回へ続きます。興味がある人、続きを読みたい人はシェア・ツイートしてくださるとありがたいです)