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週末読書メモ69. 『十八史略』

(北海道十勝の農家6代目による週次の読書メモ)

中国最古の王朝、殷。それよりも以前の神話時代から南宋までの歴史を一冊にまとめた『十八史略』。

太公望や諸葛孔明をはじめとする多彩な人物達。彼らの逸話から様々な悲喜劇まで、戦略性やリーダーシップの事例集としても、中国の歴史・文化集としても必見の内容でした。


本書の魅力の一つは、各王朝の盛衰から、その失敗要因を教訓として残していることのように思えます。

秦の滅亡を早めたのが、宦官趙高である。宦官は宮廷の裏方であるが、皇帝の日常生活と接することから、権力を左右しやすい立場にいた。
(中略)儒者以外の人物なら劉邦がよく耳を傾け従っていたことをも示していて、その結果、戦わずして勝利を得ることもでき、これが人望となって彼の天下統一を早めた。逆に秦が当初は呂不韋や李斯らの接客を尊重しながら、胡亥や趙高になってから聞く耳を持たず、人望を失ってあっけなく滅亡したことも、裏表の問題として考えてよかろう。

戦争にとって重要なものは、食糧だけでない。戦いの中心となるのは兵士であり、その供給源は当然のことながら国民であった。ところが、蜀国の人口数は他の二国に比べて決定的に不足していた。
(中略)人口の問題は、兵士の数だけではない。国家が集め得る知識人の数にも影響を与えた。
(中略)孔明が法制の厳格な適用をめざした結果、馬謖のように有能な人材を消耗する結果を招き、必然的に孔明ひとりだけが大車輪の働きを余儀なくされたのである。この知識人の不足こそは、孔明の生命を縮め、やがて蜀国の国命まで縮めるに至る要因であったように思われる。

編纂者(曾先之)がこの歴史書を残すにあたり、様々な国家の失敗要因を後世に知ってほしいという想いが滲み出ています。

これこそ、歴史読本の価値というか。世の中では、成功事例・方法が取り上げられがちですが、失敗事例・要因は同じかそれ以上に、現実の世界で生き抜く上では参考になる点が多く感じます。

(同様の点で、日本軍の敗因を分析した野中郁次郎さんの『失敗の本質』は本当に名著)


また、中国の歴史・文化を知る上で印象深かったのは、中国という国は、その歴史の中で様々な国家運営方法を用いていたことを学び直せたことです。

周の建国をみれば、中国西方岐山のふもとの肥沃な農業地帯に腰をすえた周族が、その社会道徳としたのは、譲り合いの精神だった。
(中略)この周の農業社会が育んだ精神が、のち儒教として体系づけられていくのであるが、この西伯昌の時点では、まだ殷王朝にとって代わるだけの内容にまで整備されていなかったであろう。その点で、東方から来た呂尚の知恵は貴重だったに違いない。それは、譲り合いの精神とは逆の、天下の支配権を奪い取ることを合理化するものであったからである。

斉はその「功績第一主義」が裏目に出て、手柄を逆用して国を乗っ取る「纂弑の臣」が出現するだろう。魯はその「親族尊重」政策があだとなって、同族者に政権を左右されて国が弱体化し、いずれ斉に臣従することになろうと。
(中略)儒教による礼法重視の政治・政策にも、手柄や功績第一主義にも、その固有の欠点のあることが認識され、歴史書に記録されているということだ。中国の歴史書にまずもって求められたのは、このような人間の営みにつきまとう欠点の認識であり、その反省に立った戒めであろう。

王道と覇道、血縁主義と実力主義。相反すらする方法が、その長い歴史の中で、揺れながら、交わりながら、取り入れられていたこと。

何千年という長い歴史観を持って物事を見ると、万物は流転し、変化が絶えないことを、改めて思い知らされます。


本書と同様に、講談社学術文庫から出版されている中国の古典、『呂氏春秋』、『戦国策』も一読の価値がある内容でした。

なお、これらの3冊を読むにあたり、中国の歴史の流れを少しでも知っておくことは、内容の理解の助けになります(その点では、YouTubeの「オカモトの歴史実況中継」は、とても面白く、参考になりました!)。


「書物の新しいページを1ページ、1ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく」

ロシアの劇作家、小説家チェーホフはそう言い残したそうです。

本書のように歴史の荒波に耐えた古典を読むと、より一層これを感じます。

海外ではビル・ゲイツさん、国内でも孫正義さんや柳井正さん等、傑出した成果を出した経営者は猛烈な読書家、と言われる例は枚挙にいとまがありません。

そうであるならば、(自分のような人間はなおさら、)書物を食らうように読み、消化し、自らの一部にすることを続けていこう。


【本の抜粋】
周の建国をみれば、中国西方岐山のふもとの肥沃な農業地帯に腰をすえた周族が、その社会道徳としたのは、譲り合いの精神だった。
(中略)この周の農業社会が育んだ精神が、のち儒教として体系づけられていくのであるが、この西伯昌の時点では、まだ殷王朝にとって代わるだけの内容にまで整備されていなかったであろう。その点で、東方から来た呂尚の知恵は貴重だったに違いない。それは、譲り合いの精神とは逆の、天下の支配権を奪い取ることを合理化するものであったからである。

斉はその「功績第一主義」が裏目に出て、手柄を逆用して国を乗っ取る「纂弑の臣」が出現するだろう。魯はその「親族尊重」政策があだとなって、同族者に政権を左右されて国が弱体化し、いずれ斉に臣従することになろうと。
(中略)儒教による礼法重視の政治・政策にも、手柄や功績第一主義にも、その固有の欠点のあることが認識され、歴史書に記録されているということだ。中国の歴史書にまずもって求められたのは、このような人間の営みにつきまとう欠点の認識であり、その反省に立った戒めであろう。

秦の滅亡を早めたのが、宦官趙高である。宦官は宮廷の裏方であるが、皇帝の日常生活と接することから、権力を左右しやすい立場にいた。
(中略)儒者以外の人物なら劉邦がよく耳を傾け従っていたことをも示していて、その結果、戦わずして勝利を得ることもでき、これが人望となって彼の天下統一を早めた。逆に秦が当初は呂不韋や李斯らの接客を尊重しながら、胡亥や趙高になってから聞く耳を持たず、人望を失ってあっけなく滅亡したことも、裏表の問題として考えてよかろう。

光武帝の成功要因は何だったのか。それは、本文の馬援のことばに示されている光武帝の行動の指針、すなわち儒教的な徳業にあった。
(中略)光武帝はまた、項羽が秦の降卒二十万を坑にしたり、高祖や武帝が全国の地方豪族を関中や辺塞に移すといった強圧策をとらなかった。これらは、儒教的な徳政と言ってよいだろうが、その実質は農民や豪族間の調和と安定をはかる一種の弥縫策であったとも言えよう。

外戚にしろ宦官にしろ、権力を左右できた理由が一君の独裁君主体制という王朝の政治機構そのものであったことである。外戚の「侍中」職も、宦官の「大長秋」職も、共に君主の支配機構の頂点の一点下に位置し、皇帝の命令を下達し、また臣下の上奏を取り継ぐ政治秘書の役目を負うことによって皇帝権力を左右できたのである。儒家がいかに理想を説いても、この独裁機構を否定することまではできなかった。

戦争にとって重要なものは、食糧だけでない。戦いの中心となるのは兵士であり、その供給源は当然のことながら国民であった。ところが、蜀国の人口数は他の二国に比べて決定的に不足していた。
(中略)人口の問題は、兵士の数だけではない。国家が集め得る知識人の数にも影響を与えた。
(中略)孔明が法制の厳格な適用をめざした結果、馬謖のように有能な人材を消耗する結果を招き、必然的に孔明ひとりだけが大車輪の働きを余儀なくされたのである。この知識人の不足こそは、孔明の生命を縮め、やがて蜀国の国命まで縮めるに至る要因であったように思われる。

この張世傑を通してみて本章の主題は、血統の存亡こそ生死の基準だという点にあろう。この点で注意したいのは、前節で見た文天祥の生き方だ。彼は、元との戦いの過程ですでに家族を失い、捕らえられたのちもひたすら死を願っていた。しかし、これによって文家の祭祀まで断絶したのではなかった。というのは文天祥の弟文壁が、いち早く「祭祀の存続」のため元に降っていたからである。元に降ったのは彼だけでない。多くの南宋の将士が次々に元に降った。元の皇帝フビライが驚いたほどだ。その裏には、自己の血統を優先させようという意識が働いていたのである。

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