Ⅱ章 彼女の場合③
「この時間が来ると月末って感じがするわね~」
くるりと椅子を一回転させながら舞衣はいう。
金曜日の三時以降は受注依頼がほとんど来ないため、書類整理をする。
それも大半が中旬には片付いてしまうため、月に一度は必ずこうして「何もしない仕事」の時間が訪れる。
「この時間に上がってもお給料減らないなら最高なんだけどなー」
そう言いながら視線を課長の秋野へ向ける。
「またそんなことを……。何か業務の見直しとかミスがないか探せばいいじゃないですか。」
隣で藤崎が何かを作成しながら答える。
「あんた何やってんの?」
「これですか?この前、新しく販売した商品の受注手順書ですよ。今までと違うから混乱しないようにと思って……」
「あんた、ほんとマジメね……」
「そうですねぇ……。僕も見習わなきゃなぁ……」
そう言って、ふたりの間で頷く声がする。
わぁっ、とふたりが振り向くと上司の冬木が屈みながら画面を見つめている。
「鉄仮面、いつの間に……」
「それ本人の目の前で言っていいの?」
舞衣が思わず声に出したあだ名に、冬木は笑いながら答える。
「まぁ……学生の時のあだ名に比べれば、面白いから気にしてませんけど」
冬木は本当に気に留めていないようだった。
そんな漫画のキャラクターみたいな、と藤崎が言った。
「それがあながち間違ってないのよ」
「間違ってないって……。有名な人だったんですか?」
「主任、昔バスケで全国区の選手だったから」
「えっ!?そうなんですかっ!?なんか意外……」
温和な態度からは想像も着かないといった表情で藤崎は彼を視る。
「あれ麻生さん、僕のこと知ってたんですか」
「それなら言って欲しかったなぁ……」
今度は、本当に驚いた様子だった。
「同じ世代で高校バスケやってた人間なら、知らない人いませんよ」
冬木は、関西の名門 白仙学院在籍時にインハイ、ウィンターカップともに二連覇を果たした。その過激なまでに徹底した攻めのスタイルは「白仙の虎」と呼ばれ、大学ではインカレに4年連続出場、優勝二回と4年時にMVPを獲ったほどの実力者だった。
―――—そんな彼が何故、コートに立たずにここにいるのか。
姿を変え、言葉を変え、態度を変えて此処にいる。
舞衣にとって、入社した時からの疑問だった。
「僕のこと知ってるなら、麻生さんもバスケやってたんですね」
冬木は聴き返す。
「えぇ……。――正確にはマネージャーでしたけど」
そうですか、と言いながら冬木は感慨深い表情で窓に眼を向ける。
冬木は舞衣より2歳年上だ。当時のバスケ雑誌の紙面では、全国の強豪校の記事が毎月掲載されていたが、その中でも冬木の扱いは別格だった。
そんな凄かったんですか、と口開いたのは、藤崎だった。
彼女の同棲相手は、バスケットボールの実業団選手としてプレイしている。
「私のカレもバスケやってますけど、インカレは散々でしたよ。そのインカレで優勝した上にMVPって……」
藤崎は、恋人と大学時代から付き合っていた。
当時、試合の応援に行っていただけに上司の功績の大きさが理解できる。
全国の学生がひとつの栄光のために4年という期間を費やす舞台。
懸ける時間、熱量、努力……。それらを懸けた分だけ応えてくれる世界ではないこと。「勝ち」を掴むことの難しさを彼女も知っていた。
それ故に藤崎は疑問を口にした。
「主任、今はコートに立たないんですか?」
誰もが思う疑問だ。学生時代とはいえ、トッププレイヤーだった男が実業団もない会社に勤めている。極めて異質なその事実に疑問を持たない方がおかしい。
だが誰もが言えない疑問でもある。
簡単な事情ではないのだろう、と止まってしまう。
「何もしない仕事」の緩みからか、それとも興味本位が勝ってしまったのか。彼女は冬木に突き付けた。
そうですねぇ……、と言いながら、彼は窓の向こうから視線を外さない。
少し考えてから、ふたりの顔を見てあっさりとした風に言った。
「端的に言えば、挫折しちゃったんですよ。色々あって。ふたりだって何かを諦めたことあるでしょう?それと一緒のことですよ。そんな……ありきたりな理由、ってところですかね」
じゃあ、僕も仕事探しますかー、と言って、彼はその場を後にした。
あまりにも淡々とした返答だったため、残されたふたりは拍子抜けしたが、確かに挫折はひとつの理由になる。
誰もが何かに憧れたり、夢を抱いたり、大きな目標を掲げて育つ。
それは受験かもしれない。あるいは部活や創作活動もそうだろう。
そうした目標に向かって計画を立て、工夫する。
つまり、努力を学んでいく。同時に、必ずしも自分の努力が報われるわけではないことも経験する。
実際、努力が実らないことの方が圧倒的に多い。
努力と結果を繰り返して、次第に人は己の出来ること、出来ないことを知っていく。出来ないこと、叶わないことを受け入れる。
それが成長するということなんだろう。
冬木の背を見ながら考える。同時に舞衣は一つの疑問を抱いた。
――――それは、恋も同様なのだろうか。
だとしたら私はまだ、出来ないことを受け入れられないでいる。
「にしても、舞衣さんがマネージャーって意外ですね」
珍しく興味有り気に自分のことを聴いてくる後輩を見つつ、マグカップを取り、両手で包みながら暖を取る。濁った色のコーヒーをぼんやりと眺めながら話し始めた。
「昔は真面目だったのよ。そこそこの高校入って、3年間ちゃんとバスケ部のマネージャー務めてさ。最後の年は、県内でベスト4。頑張ったと思う」
自分で言いながら、懐かしい感覚と苦い気持ちが口に広がっていく。
「県内ベスト4って強豪じゃないですか。部員の数も多そうだし、マネージャーのやる仕事も多そう……」
「いやー弱小校だったから部員も全体で20人もいなくて。だからそこまで大変でもなかったかな……。強かったのは、たまたま粒が揃った世代だったからだと思う。先生もそう言ってた」
「そうなんですか。でも強かったなら、そこから実業団に入った方とかいないんですか?」
「いるよ、ひとりだけ。実業団っていうか日本代表になった奴がひとり」
「えぇっ!?誰ですか?」
驚く藤崎に促されて、バスケットボール協会のホームページを開く。
そしてカーソルをひとりの選手に合わせ、これ、と言って彼女に示した。
「悠木純 スモールフォワード 183㎝……。183㎝ってバスケだとかなり小さいのにスタメンじゃないですか……」と驚きを隠せない。
「今の代表って平均身長が歴代でもトップクラスで低いらしいよ。190㎝なんだって。世界だと平均身長200㎝がザラなのに凄いと思うわ」
「ですよね……。この悠木さんって、どんな人だったんですか?」
「純?そうね……。面白い人間じゃなかったわ」と言いながら、手を軽く振って舞衣は笑う。
「純はね。周りの顔を伺ってばかりで主張しないっていうか……。悪い意味じゃないんだけどさ。凄く気遣いが出来る奴だったかな。凄く上手いってわけじゃなくて、仲間の良いところを引き出すタイプで。だから正直、個性とか特徴って言われるとピンとこないのよ。いい奴だったけどね」
そうですか……、と言いながら、藤崎は続けて言う。
「なんか凄いですね。身近に大学バスケの元トッププレイヤーだった上司がいて、隣の先輩の知り合いは日本代表。家に帰れば、実業団の彼氏……。私、バスケそんなに好きじゃないのに凄い人達に囲まれてる……」
舞衣は、「明日、目が覚めたらバスケットシューズ履いてたりして」と笑って返した。
「冗談言わないでくださいよ。でも舞衣さんがそんなに人のこと見てたなんて驚きました、私」
馬鹿にして、と言いつつ、舞衣は続ける。
「周り見てサポートするのが私の役目だったから。ウチの世代は、みんな自分の役割を意識して行動してたのよ」
「なんで今はやってくれないんですか……。たまには私を助けてくださいよ……」
わかったわかった、と宥めながらディスプレイで時刻を確認する。
時刻は夕方5時半を少し超えていた。
それでは、と社員の多くが打刻していく。
冬木や藤崎もPCの電源を落として、会社を後にした。
舞衣は、少し遅れて打刻を済ませて席を立つ。
振り返るとフロアには朱い日差しが差し込み、夜の訪れがそう遠くないことを告げていた。
それを見て、彼女はいつも「朱いな」と思う。大阪の夕暮れは、地元のそれとは違って赤が濃い。
会社を出て、帰宅する途中。電車の中でさえ、その色の違いがハッキリとわかる。ここが遠く離れた地であること。あの時間が終わってしまったこと。
――――そして昔のような関係には戻れないこと。
電車は戻ってはくれない。
まるで時間のようだ、と彼女は思った。
反対側に座っている女子高生達は、ゆっくりと青春を堪能したのだろう。
三人仲良く右側に寄り掛かって眠っている。
――――こちらに来てもう5年が経った。
それでも私はまだ、この朱い陽(ひかり)の中で微睡むことが出来ないのだな、と彼女は思った。
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