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「言語化」ブームの裏では、きっと“なにか”がこぼれ落ちている。 【短歌を一緒に考える】

声にして意味の重さを与えれば音も私も壊れてしまう

木下龍也『オールアラウンドユー』(ナナロク社、2022年)

最近、映画を見た後、感想が二つに分かれるようになった。
「解釈したくなるもの」と「解釈したくないもの」の二つに。

国分学科に属していたころ、「テクスト論」という考え方を学んだ。
平たく言えば、作品と作者を切り離し、作品のテクストそれ自体から何が読み解けるかを考えていくという手法である。

それから僕は“作品をいかに鋭く解釈するか”を意識するようになった。
細部の描写に着目して、物語の裏側に目を向け、作品に書かれていないことを読み取ることに執着した。
気が付くと、読んだら分かると思われる話の本筋には興味がなくなってしまっていた。

大学を卒業しても、その悪癖は治らなかった。
社会人になると文学を読む時間も体力もなくなり、代わりに映画を見るようになった。
けれども、作品への向き合い方は大きく変わらなかった。

あるとき、ふっと、嫌な疑問が湧いた。
僕は、自分が“分かる”と思った作品だけを、いい作品だと思っているんじゃないか?

映画の構造やショット、セリフや細かい演技に音楽の使い方。
それらを、世間の読みからは外れた形で、一つの論へと統合すること。
僕の評価基準は、”それだけ”なんじゃないか?
僕が取るに足らない作品だと思ったのは、“分からなかったから”ないしは“つまらない理由をうまく見付けられたから”という、ただそれだけなんじゃないか?

これまで切り捨ててきた映画にも、こぼれ落ちている感動があったのかもしれない。「意味の重さを与え」ることで、「壊れてしまう」なにかが、きっとある。

それに気づいたとき、一気に自分の中の“軸”が崩れる音がした。
何がおもしろいのか、何が優れているのか、何が好きなのか、さっぱり分からなくなった。

昨年、映画「ルックバック」を見た。
涙が止まらなかった。
間違いなく、その年でベストに当たる映画だと思った。

けれど、それは“分かった”からじゃない
物語が抱える数々の想いが、僕の心の真ん中に触れたからだ。
この作品の外側に立ちたくない、と思った
この作品を「解釈したくない」と思った。

声は、言葉をともなう。言葉は、意味をともなう。
意味は、それまで未分化だった世界を一意に切り分ける。
感覚や感情の世界をたゆたっていた想いの大半が、声を出すその瞬間、最初から存在しなかったかのように切り捨てられる。

「そばかす」という映画のワンシーンを思い出す。
三浦透子演じる主人公の佳純(かすみ)が、前田敦子演じる友人の真帆(まほ)の結婚式でスピーチを担当するシーン。

佳純は、スピーチの代わりに、チェロの演奏を披露する。
彼女は、心に渦巻くさまざまな想いを、言葉ではなく音で伝えることにした。
感情が、言葉によってトリミングされることなく、未分化のまま、塊のまま、美しく響きわたる。
作品随一の名シーンである。

三省堂が選出する「今年の新語2024」では、「言語化」が大賞となった。
言葉を介したコミュニケーションが圧倒的な支配力を持っている現代社会において、その傾向自体は決して悪いことではないと思う。

一方、その裏ではきっと“なにか”が取りこぼされている
普通なら見過ごされてしまうような“なにか”が。

ということを、結局僕は言葉で語っている。
きっとこの文章からも“なにか”がこぼれ落ちているのだろう。

人間とは、どこまでも言葉に呪われた生き物であり、「声にする」ことから逃れることはできない。
しかし、壊れてしまった「音」や「私」に自覚的であろうとすることはできるはずだ。
それが、この「言語化」社会を生きる私たちの責務なのではないだろうか。


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