【鎌倉殿の13人の和田義盛はスッゲーいい奴、でも。。ズルいやつでもあるなあ。あと、ほんのちょっとだけキングダムの桓騎について】
鎌倉殿の13人を見ていない人には分からない記事ですのであしからず。
ネタバレも当然ありですのであしからず。
ただの感想です。
ついに和田合戦が起きてしまい、義盛は死に、義時は涙しましたね。
義時は義盛を殺したかったけど、殺したくなかった。
「人間は単純ではない」
そのことをよく分かっている人が作った、そのことを上手く表現しているドラマだと改めて感じます。
さて、義盛。
可愛くて単純でスッゲーいいやつなんですよね。トキューサの言葉がシンプルにまとめています
「和田殿が嫌いな人などいません!」
でも、凄くズルい人でもあると感じます。少なくとも義時は無意識の領域で、そう思い恨みすら感じているのではないでしょうか?
人任せなんです。
このドラマの軸として、源頼朝という鬼がいて、その鬼の役目を義盛と同じくらいに純朴だった北条義時が受け継ぐというのがあると思います。
このドラマにおいては、和田義盛に限らずほとんどの登場人物がこの二人の鬼に色々なことを丸投げして好き勝手しているのです。
例えば政子は綺麗事、畠山は自分の武士道などなど。。
それらはザックリと言って個人的欲望なのです。当然、二人の鬼も持っている。
しかし、「美しくありたい」という人間本能故か、困った現実に直面すると、決断、何よりも考えることをこの二人の鬼に丸投げする。当然、非情のの決断、そしてそれに伴う汚れ仕事と人として当然の怨みも。
和田義盛や畠山重忠はいつも、最後には「どうする?」と歳幼、もしくは同年代の義時に仰ぐ。
2代目鎌倉殿の源頼家を殺害するという、当時における道義において「ありえない事」の決断さえも、義時にまるで当然のように押し付けられた。
父親、北条時政はじめ、より年齢も経験も位も高い人間が数多いるにも関わらず、肝心の
「頼家様を討ち取る」
と発声する役割を担わされたのは、当然の流れのように北条義時、いや、江間小四郎だった。
二人の鬼、源頼朝も北条義時も、人として当然の「美しくありたい」を持っていた。しかし、彼らは思考と決断を丸投げされたがゆえに疲弊しつくしてしまった。
善も悪も理想も希望も欲望も全部グッチャグチャにこんがらがってもう、わけが分からなくなってしまっている。
義盛の死を背中に苦渋の表情、おそらくは涙していたであろう、しかしハッキリとそうは分からない北条義時役の小栗旬の演技はそういうグチャグチャになってわけがわからなくなった人間の有様をよく表現していると感じ、こちらの心までわけが分からなくなった。
繰り返す。
義時は義盛を殺したかったけど、殺したくなかった。
和田義盛は二人の鬼にすべてを丸投げにしてお気楽に自分の美しさだけを表しながら生きていたズルい人々の代表。
「俺ぁ、難しいことを考えんのは苦手なんだ!」
と、ことあるごとに言い切る和田義盛。しかしその無邪気な明るさは、それはそれで世界に必要とされていた。当の北条義時もことあるごとに義盛のこの残酷な無邪気さに救われるために酒を呑み交わすべく、その居を訪れていたのだ。
そしていつも、この和田義盛の残酷にして美しい台詞を浴びて、哀しく笑顔を漏らしていた。思うに癒やされながら、憎悪を蓄積させていたのではないだろうか?その単純であるがゆえの美しさ、残酷さに。
そして、この和田義盛の残酷さは、為政者に対する「一般人」たる、私達にもまた内蔵されているものであると感じます。そもそも、民主主義という建前においては息をしているのであれば、もはや為政者という言葉を自分と切り離している時点で無責任。政治を為すのは他ならぬ全ての有権者なのだから。「一般人」を自称するのは欺瞞にして無自覚無明。
この無自覚無明こそが、現代の混迷の原因において占める所、小ではあるまいと思います。
奇しくも長く続く『キングダム』という歴史漫画ににおいても似たようなテーマが最近、少しずつ浮上しています。即ち「桓騎の闇、桓騎の怒り」 ずっと以前から匂わされていた、おそらくこの物語の「青年漫画」としての最大テーマも1つであろうこれがついに来たかと感慨深い。
「底辺において虫ケラのような生き方を強いられているお前らにとって八つ裂きにしても飽き足らないのは、こんな世界を作ったトップじゃあねぇ、為政者じゃねえ。なんの行動も起こさない中間層だ」
要約するとこんな感じでしょうか。
キングダムの主人公の信は、当初、完全に和田義盛タイプで、当然のように桓騎と反目するのですが、最近、変化が現れているのです。
「大人になる」
この4文字は非常に危険な4文字なのです。
北条義時は源頼朝に対し反目しつつも、少しずつ「大人になり」今、静かに阿鼻叫喚の地獄を漂っている。
さて、私はどうか?というところですな。
以上。