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無料連載小説|紬 17話 向日葵
翌日の午後、喫煙所のベンチに座り、ひたいの汗を拭いながら純露を舐めていた。他の人に話しかけられると気まずいからイヤホンで耳を塞いで。人がいなくなったところで、向日葵を眺めた。夏はまだ続きそうだ。元気そうに咲いている。青空には入道雲まで浮かんでいた。季節の移ろい。とても尊い。そんな私の視界に影が入ってきた。
奈月先生だ。嬉しそうな顔をしているけれど、はっきりと言わないといけない事がある。
「私は口説かれに来たんじゃないですからね!」
「いきなりどうしたの?口説く気もないけど」
「今日はパールジャムの話をしに来たんです!」
私はよく分からない女になってしまった。普通に言えばよかったのに。話し相手が欲しかったから来ましたって。だけど奈月先生は大人だ。察してくれた。優しい顔になった。
「俺はファーストアルバムが好きだ。よくライブでやった曲もある」「バンドやってたんですか?」
「ああ。昔々あるところにいた平凡なベーシストの1人が俺だ」
ベーシスト。なんとなくギターボーカルとかやってチャラチャラしてそうなのに。
「紬ちゃんは何も言わないでほしい。グランジなんて女が急に聴き始める音楽じゃないからな」
配慮とかするんだ。それならついでに非喫煙者を喫煙所に連れてこないように配慮してほしいけど。
「奈月先生、紬ちゃんって呼ぶのやめてください。逆にいやらしいです。紬でいいです」
奈月先生は向日葵の方へ煙を吹きかけた。煙は宙に溶けて向日葵には届かなかったけれど。
「紬か。ここではそう呼ぶことにするよ」
ここでは。なんとなく2人の秘密ができたみたいだ。私は笑顔でうなずいてしまった。
私たちは30分以上、音楽の話を続けた。気がつけば純露はあと2粒だ。ノーマル味と紅茶味。どちらを最後に残そうか。
「紬、その飴はなんだ?古風な名前だけど」
「UHA味覚糖の最高傑作です。純露っていうんです」
奈月先生は手に取り、袋を眺めている。
「飴業界が出した最後の答えだと思ってます」
私がそう言うと吹き出された。何か変なことを言っただろうか?奈月先生は笑っている。
「いい言語感覚だよ。言葉が退屈な人間は話しても面白くないからな。紅茶味とノーマル味が残ってるってことは、業界も決めかねたってとこか。紬、その感性好きだ」
小さく告白されてしまった。
「ここでは奈月でいいよ。年上を呼び捨てにすることに気が引けるなら、奈月君とか適当に呼べばいい」
2人の距離が縮まってしまった。奈月と距離が近づいたことについては嫌悪感を感じなかった。
それから私は毎日許される限りの時間、喫煙所で純露を舐める生活をした。奈月の方は毎日職場がよく許してくれるもんだと心配させるほどの時間、喫煙所に滞在した。だから私たちは目で見えるんじゃないかっていうくらいの速さで親しくなっていった。奈月は私を性の対象としてみない。ただの音楽と純露が好きな女の子といった程度の扱いだ。私の方は奈月が見せる色々な顔をとらえられずにいた。時折苦しそうにする理由まで。