無料連載小説|紬 15話 音楽
昨日、アリス・イン・チェインズを聴きながら浴びるほどウィスキーを飲んだ。蒼さんと京介さんの3人でよくコピーしたアルバムがDIRTだ。蒼さんの死が俺たちから音楽を剥ぎ取った気がする。だから音楽をまともに聴いたのは久しぶりだ。グランジに胸が引き裂かれそうだからだ。そして俺が酒で喉を灼いた理由はもう一つ。小川紬だ。
診察のときにTシャツからのぞいた彼女の首元のアザは印象に残った。だからカルテを開いた。勤務を始めてから一度も患者の初診時のカルテを見たことはなかったのに。
精神科のカルテはその人がどんな人生を歩んできて、どんなトラウマがあり、ここにたどり着いたのかを詳細に書くため、その人の人生を物語のように読むことができる。小川紬の物語。見るんじゃなかった。
小川紬
双極性障害
15歳で双子の妹が性的暴行を受けて自殺。本人は自殺現場の第一発見者である。妹の自死による喪失感や深い悲しみの中、性的暴行の加害者が同じ高校の生徒であるため加害者を目にすることが不可避な状態であり、妹の自殺現場のフラッシュバックが頻繁に起こっていた。高校は欠席することもあったが、何とか卒業し、地元の私立大学に18歳で現役で入学した。大学へは自宅から通学していた。大学一年生の冬ごろから性的逸脱が始まる。大学二年生の夏休みに気分の落ち込み、物事に対する興味と意欲の喪失が強くなり、一日中布団の中で生活する日が続いた。排泄以外入浴もできず、食思は低下し、1ヶ月で5kg体重減少した。10月に初めて心療内科受診しうつ病と診断され、パロキセチンで治療開始された。しばらく状態は変わらなかったが、6ヶ月が経過頃から、自宅での暴言暴力が目立つようになった。夕食時に父親と口論になり、父親をビール瓶で殴ろうとした時に誤って妹の遺影を割ってしまった日の夜に、自宅の自室にてギターの弦を使用して首を吊り自殺未遂した。母親が発見して、救急要請。搬送先の病院で1週間の入院後、当院紹介となる。
15歳なんてまだ子供だ。そして性的逸脱。数多くの男に抱かれてきたってことだろう。本人の意思か、狂熱によるものかも分からず。最後は自殺未遂。そして今、檻の中だ。
喫煙所のベンチに座った彼女は俺を怪訝な目で睨んでいる。
「紬ちゃん、大丈夫。患者を口説くほどクズじゃない。俺はアウトドア派だから、職場外で口説く」
ー軽い人だな。紬ちゃんって勝手に呼んでるし。
「呼び方は紬ちゃんでいいよね?」
ーもう呼んでるのに。そもそも患者をちゃん付けで呼ぶ?
「何で私をこんなところに呼んだんですか?!」
怪訝な表情から明らかに怒っている顔に変わった。わかりやすい性格らしい。表情があるってことは、落ち着いてるんだろう。カルテに書いてあった初診時の小川紬と、今目の前にいる紬ちゃんは結びつかない。どんな思いをしてきたのだろうか。ただ興味があったというよりは、心から不憫に思った。紬ちゃんは、髪がボサボサに伸びている他は普通の女の子にしか見えなかったからだ。
紬の過去は悲しいものだった。だけど紬は今も苦しんでいるし、未来永劫苦しむことになる。アリス・イン・チェインズなんて聴いてる20歳の女の子がそんな目に遭ってると思うと、やりきれなかった。紬と始めて話した日の前夜、アリス・イン・チェインズを聴きながら壊れるまで酒を飲もうとした。結局、吐いて終わった。せいぜい翌日に頭痛が残った程度だ。俺は自分に大した苦痛を与えることさえできない。紬の痛みに触れられるなんて今も思っていないのは、この夜の酒のせいだ。