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無料連載小説|紬 37話 診察と挨拶

「奈月!」
病院の玄関で立っていると後ろから紬に呼ばれた。いくらかはしゃいでいる。俺が振り向くと、向日葵のような笑顔を見せた。
「不束者ですけど、よろしくお願いします」
後ろに立っているのは両親か?順序が違う。気まずいにも程がある。
「初めまして、桐山奈月と申します。当院歯科に勤務しています。先日はご迷惑をおかけしました」
お父上も何から話していいかわからない様子だ。だが、京介さんとの神風には悪い印象を持っていないようだ。
「お話は伺っています。娘のために、なぜ暴力まで?」
チンピラのような男と結婚させるには抵抗があるだろう。だが俺たちの暴力は、攻撃するための暴力じゃない。守るための暴力だ。
「状況はお聞きですか?」
「紬が知っている限りは全て」
「僕がどのような人間だと期待していますか?」
「先生のありのままが知りたいんです」
 俺が口を開こうとしたとき、お父上は緊張していた。言葉と裏腹に、俺から何も聞きたくなかったんじゃないだろうか。あんな言葉が娘にかけられているということを思い出すことになるのだから。そこまで思ったところで診察室に入るよう促された。
「診察室の中で、全て話します」
 紬の主治医は院長だ。人の良さそうな丸っこい目で、紬に話しかけた。
「複雑な診察になったね。緊張はしてませんか?」
紬が明るくうなずくのをみて安心している。隣に座っている理事長は、不安が隠せない様子の両親に優しい視線を注いでいる。
「小川さん、この度は当院職員がご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません」
父親は理事長に弛緩させられたようだ。
「いえ、迷惑とは思っていません。正直に言いますと、状況についていけていないというところでして。一度桐山先生の方からご説明していただけないでしょうか?」
 俺は全て話すことにした。まずは親しくなったきっかけから、喫煙所でのやり取りまで。そしてコーヒーを飲みに行ったことなども詳細に。最後に俺が紬から聞いた、クソガキの言葉を伝えた。両親は泣き顔だ。院長が割って入り、説明を補足する。
「このように人格を否定する発言をされ、それを聞いた桐山先生が感情的になってしまったという訳です」
精神科医ってのは言葉が上手だ。その感情が暴力に発展したという訳です。
「しかし、うちの娘のために結婚まで持ち出すというのは急な話だと思うのですが。親の私が言うべきではないとは思いますが、桐山先生にとってもご迷惑になることがあるとも思いますし」
浮かれていた紬の前に現実が一欠片ちらついた。さっきまでキラキラとしていた目の光が少し曇っている。
「紬さんはどうしたいかな?」
院長はあくまで落ち着いたままだ。現実に引き摺り込まれそうになっている紬に手を差し伸べた。
「私は、奈月の迷惑になりたくないです。そばにいると、やっぱり迷惑ですか?」
院長の首は左右に振られた。
「桐山先生、そうですよね?」
色男の見せ場を持って行かれた気分だ。うなずくしかなかった。
「まずは結婚を前提にお付き合いを始めるところからどうでしょうか?ご両親がそれで改善したと感じなかったら、いつでもご相談にいらしてください」
 それから薬の調整は特になく、普段通りの診察のあと俺たちは部屋を出た。母上様には何度も紬をよろしくお願いされた。みんな勘違いしている。紬は、俺に人の心をくれているのに。
「軽はずみな行動をとって、信頼に値しないかもしれませんが、時間をかけて紬さんの笑顔を増やしていこうと思っています。長い目で見守ってていただければ嬉しいです」
母上様が泣き出したと思った時にはお父上まで涙を流していた。右手を差し出すとかたく握られた。何度も「よろしくお願いします」と声を震わせながら。
 こうして紬は婚約者になった。俺にも宝物ができた。幸せなのは紬だけじゃない。俺も同じだ。帰りは俺の車がいいとせがんだので、少し遠回りをして夕暮れ時の砂浜へ降り立った。少し靄がかかったような、輪郭がボケた夕暮れだ。夕陽が潰れたような形をしていて、ピンク色の空に浮かんでいる。徐々に水平線へと近づいていき、海に飲まれ、あたりは闇に包まれた。星と月はいつからそこに浮かんでいたんだろうか。新しく闇を照らし始めたことに俺たちは気付いてさえいなかった。ただ、言葉にもならず並んで座っていた。婚約者となった日は、いつもより特に現実味がない夕暮れ時だった。俺たちの人生という現実にリアリティは必要なのだろうか。幸せなら、なんでもいいんじゃないだろうか。ぼんやりと思ったことだ。ただ、俺たちに何が必要で何が必要じゃないのかまだ分からない。必要なものを差し出した時、紬は笑うだろう。差し出そう。一つずつ。それが俺にできる全てだ。
「奈月、スーパーマーケットに行きたいです」
 急にリアリティが持ち込まれてしまった。しかし意図するところは分かる。俺も腹ペコだ。
「好きな料理は?」
「そうだな。だし巻き卵にアオサの味噌汁」
紬は俺の顔を覗き込み、慈悲に満ちた笑顔を見せた。
「それ、恋人が初めて作るメニューですか?」
俺は煙草に火をつけ、溜め息を誤魔化した。
「初めての恋人に、何をしてもらうのが正解かなんて知らないんだよ」
そういうや否や、腕を絡められた。
「私も男の人にどうするのが正解なのかなんてわからないです」
二人とも答えを知らない。だけど俺たちは歩き出した。二人で、お手本のない道を。
「一緒に探そう。正解って言葉も少し違う気がするんだ。単純に、俺たちだけの幸せが見つかればそれでいい。そんなものを探して、手に入れる。俺たちの人生は、そんな風になるんじゃないかな」
 それから家に来た紬は簡単にキッチンを片付け、俺のリクエストに応えてくれた。味付けは良く、どこか懐かしい気持ちにさせられた。食事中、紬は指輪と俺の顔を交互に眺めていたので、尋ねてみた。
「どうした?」
「幸せにしてくれる指輪と、表情を見てました。こういうのを沢山集めていくと、私みたいな病人でも幸せになれるんですね」
こんな言葉で目頭がうっすらと熱くなったのは年齢のせいだろうか。壊れ切った愛する女が幸せだと言っている。年齢なんてもののせいじゃなく、本当に人の心を取り戻してるんだろう。なんとしてもこの幸せを永遠にしてやりたい。そんな大それたことを思うのも、ごく自然なことじゃないだろうか。

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