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無料連載小説|紬 13話 観光

「奈月先生って呼んでいいって言われたの!」
「いいなー!私そこまでグイグイいけなかったよ」
2人は観光旅行気分で行った歯科受診の感想で盛り上がっている。次の話題は予想がつく。私の診察だ。美優さんに聞かれた。
「紬ちゃんは?」
返答に困ったけれど、何か言ったら大変だ。
「口の中をお掃除してもらって帰ってきました」
2人の中では大人の女に魅力を感じる歯医者さんという結論が出ていた。現実は違うけれど。

美玖が鬱陶しそうにため息をついた。
「奈月先生、今日は3人も患者が入ってますよ?昨日は5人。今まで1人も来なかったのに、若い女の人ばかり来ますね。みんなどこで嗅ぎつけるんですかね」
俺もため息で返した。それぞれの病棟で1人、女の患者を診るとその病棟の患者が一気に増える。大体どんな仕組みか予想はつくし、そんなことしか楽しみがないことくらい分かる。俺との時間を邪魔されていることに不服そうな、こいつのため息の方が鬱陶しい。
「良いんじゃないですか?みんな治療が必要ない健康な患者さんですし、楽なもんですよ」
一応苦笑いを添えておいた。

今日の最後の患者は20歳の女だそうだ。電子カルテを眺めてみると、歯肉から血が出るというのが主訴らしい。この病棟から3人目の歯肉から血が出る患者だ。

小川紬。なんて読むんだ?つむぎ。最近の若い者の名前は読めなくて困る。傷病名、双極性障害。リーフレットには一生病気と付き合うと書いてあった。要は治らないんだろう。俺は電子カルテで小川紬さんの服薬内容と、状態が安定していることだけを確認し、彼女を診察室に招くことにした。美玖に小川さんを呼ぶように頼むと、いつもの猫撫で声と違う、棘のある声が響いた。
「小川さん、お入りください」
 彼女は挙動不審と言ってもいい態度で入ってきた。明らかに嘘をついているんだろう。だけど厚かましく俺を見にきた30女や40女と比べて、その控えめな態度を好ましく思った。そして、なんと言っても彼女はダイナソーJr.のTシャツを着ている。
「初めまして。歯科医師の桐山です。歯肉の話をしますか?それよりそのTシャツの話でもしませんか?」
ーえ?え?Tシャツ?いきなり何?
「そのTシャツのプリント、何か知ってますよね?」
「ダ、ダイナソーJr.のグリーンマインドっていうアルバムのジャケットです」
21歳の女がダイナソーJr.か。悪くない。
「他に好きなバンドは?」
-何か1人で納得してる。何?この先生。
「アリス・イン・チェインズ」
可愛いお嬢ちゃんだな。ニルヴァーナじゃなくてAICを挙げるなんて良いセンスだ。心配すんな。京介さんに言われてるから悪さはしないよ。
「歯肉から血が出るんだったね。絆創膏を貼った方がいい。毎日退屈だろうから、貼り替えにおいでよ。久しぶりにアリス・イン・チェインズを聴いておくから、グランジの話をしよう。次回は三日後に再診だ。CDがどこにあるか探さないといけないから」
-なんか笑われてる。嘘もバレてるし、どうしたらいいんだろう。
「俺がここにいる時間は10時から11時、あとは14時から15時くらい。暇ならその時間に遊びにきなよ。あとは喫煙所にいるから、ここにはいない」
-どこが爽やかなんだろう。確かにタバコの匂いもするし、なんか軽いし。この人は歯医者さんなんだろうか。
美玖が乱暴にエプロンを外すと、口の中を触られていないのに紬はうがいをして部屋を出ていった。
「先生、どうしたんですか?」
「プシュっててもアリス・イン・チェインズの良さが分かるっていうから、真面目に診察しただけですよ」
ろくに診察していない俺の、わかりにくい皮肉だと解釈したのだろう。クソ女はまた猫撫で声に戻った。

運命を信じない連中がいる。俺もそいつらは正しいと思う。雄と雌が交配していくだけの世界を美しい言葉で表現しようとする輩には嫌悪感を覚える。だけど確かにその言葉以外で説明できないこともある。だって紬はダイナソーJr.のTシャツを着て俺の前に現れたんだぜ?しかも、首に消えないアザを残して。

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