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無料連載小説|紬 36話 プロポーズ
「紬、今夜いつものロック・バーにギターを持ってきてくれ。グランジバンドの歌姫らしくそれなりの格好をしてな。もっともアイシャドウはいつも通りでいいが」
何となくいつもの奈月よりぎこちない誘い方だ。よく分からない。いつもの格好に、ギターだけ持っていけばいいのかな。
店の前では奈月がタバコを吸っていた。京介さんは壁に持たれてスティックをもてあそんでいる。
「セッションですか?」
「紬の歌声を京介さんが聴きたいそうだ」
京介さんがギターを大切に受け取り、変わった形の車に仕舞った。
「行こうか。遅れるかもしれないな」
「まあ、客がいる店でもないから大丈夫でしょう」
話が見えないけれど、スタジオとかを借りてくれてるんだろう。私は後部座席に乗り、二人の会話に耳を澄ました。
「シンさんとは会ってるんですか?」
「電話するくらいだよ」
古いお友達の店なんだな。ポツリポツリととしか会話をしないってことは、蒼さんと行ってたお店か。どんな顔をして入ればいいんだろう。
「紬、熊は好きか?」
「うん」
「じゃあ、今日は素敵な熊さんがいるから楽しみにしておいてくれ」
車を降りると京介さんが上着を羽織り、サングラスをかけた。細身の黒革のコート。奈月は真似するように、ボロボロの傘を羽織り、ラウンドのサングラスをかけた。私はカーキのカーディガンを着ることが気恥ずかしかったが、二人を見て誇らしくなった。楽器を持ち、地下のライブバーに繋がる階段を二人が降りていく。私はジャガーが入ったギターケースを大切に抱え、背中を折った。扉をくぐると、遠慮のなさそうな低く、太い声が響いた。
「よぉ、やっときたか!話は聞いてる。客は満席だから好きに使ってもらっていい。奈月に会えただけでも嬉しいのに、あのバカがこんな真っ当な大人になった姿が見えるだなんてなぁ」
お客さん、ゼロだけど。なんでこの人たちは説明してくれないんだろうか。
「そっちの嬢ちゃんが奈月の女か?」
「あ、はい。小川紬、奈月の女です!」
咄嗟に変な回答をしてしまった。みんなが声をあげて笑っている。シンさんなんて息まで切らして。
「いいメンバーを見つけたな、奈月、京介。紬ちゃんよー、昔この辺りには一ついいグランジバンドがいたんだよ。擦れた目にガボールのアクセサリー。暴力衝動は内向的で、ファンが一人もいないんだ。10年前だったか」
奈月も京介さんも目を合わせずタバコを吸っている。
「演奏次第だが、紬ちゃんも悪くない。脆い女の子を偽悪的な男たちが支えるようなグランジバンド」
京介さんがタバコを捨て、スティックを片手にドラムセットに座った。そういえば、こんな話が好きな人じゃなかった。力一杯シンバルを鳴らし始めた。
奈月はケースを開けると、黒いミュージックマン・スティングレイというベースを取り出し、アンプに繋いだ。ポケットから私がプレゼントしたピックを取り出し、笑った。
「紬、悪いが本当は俺は2フィンガーかスラップで弾くんだ。だからこれはお守りにしておく」
京介さんのスネアロールに奈月がグリスを合わせ、乱暴な16ビートとスラップのセッションが始まった。リズム隊のセッション。グルーブを楽しむとか、そういったことが一般的だ。だけどこの二人はどこか凶暴で禍々しい。グルーブなんて言葉が小賢しく聞こえる。
私が聞き入っていると、曲が切り替わった。少し静かな、聴き馴染んだイントロ。ニルヴァーナのリチウムだ。この曲名になっている薬は私も飲んでいる。すごく安定する薬だ。でもこうして優しい二人にリチウムで手招きされると、二人も私にとってのリチウムみたいに思えてくる。もっとも二人に深い意図はないんだろうけれど。
私がジャガーをマーシャルに接続すると、細かなセッティングは奈月がやってくれた。私は二人に合わせてイントロを弾いてみた。ボーカルパートに入る直前に、京介さんが優しくシンバルで合図をくれた。
何年振りだろう。歌った。歌えた。生の演奏で。京介さんは、サビになると見たことが無い真剣な顔でドラムにスティックを叩きつけている。奈月のベースは原曲の名残がないほどにアレンジされている。凶暴な演奏だ。私は声を絞り出した。ギターも私より私を表現してくれている。こんなにジャガーっていうギターはひずむギターだったんだろうか。私の代わりに泣いてくれているみたいだ。
リチウムの演奏が終わると前に座って聴いていたシンさんが感嘆の声をあげた。
「今時の若いもんにしちゃ、切実なグランジだ。そして傷だらけの奈月の女を、奈月が抱きしめて京介が見守る。そんな印象のバンドだな」
奈月も京介さんも苦笑いで照れを隠している。でも悪い気はしていないようだ。
「なあ、奈月。蒼の墓参りには行ってるか?」
「命日にだけ、京介さんと二人で」
「次俺が墓参りに行ったら伝えとくよ。いい二代目だって」
私がジャガーを下ろし、スタンドに置いていると後ろからなぜか辿々しく奈月に呼ばれた。
「紬。話があるんだ」
そういう割に話が始まらない。もう奈月のことは把握している。
「左手の話ですよね?」
「ああ」
私は左手を差し出した。すると、指輪の箱が取り出され、蓋が開いた。無表情なスカルの額にはグランジ・ライク・ア・ラブソングと刻印されている。
「奈月、壊れ切ったら捨てて良いからね」
気持ちが濁流のように押し出されてきた。私は壊れる。いつか、どこかのタイミングで自殺するかもしれない。浮気するかもしれない。そんな私が、こんな純粋な指輪をもらう価値があるんだろうか。あるわけがない。何人以上の男に抱かれてきたんだろうか。麻帆、どうしよう?よくわからない。
「紬!どうした!大丈夫か?」
「リスパダールください。バックの中にあります。私もう嫌。ごめん、奈月が嫌なんじゃなくて、自分が嫌」
苦い液体の薬を飲み、落ち着くのを待った。京介さんが吐き出すタバコの煙がドラムのライトに照らされ、輝いて溶けていく。そんな光景を見ていたら沈静されていき、落ち着いてきた。
「もう、大丈夫」
奈月はまた指輪を箱から取り出し、左手の薬指にスカルを嵌めた。奈月が彫ってくれた刺青のようでとても嬉しい。ただ奈月の顔が暗い。
「壊れていようがなんだろうが、気持ちは変わらないから安心してくれ。それより、優しさのつもりかもしれないが、捨てて良いとか言われる方が悲しいんだ。そばにいてくれ」
今日の奈月はあまり格好をつけない。
「いつもと雰囲気が違う」
「紬の真っ白な顔色の前で、格好がつけれない。俺も何かに謝れたら楽かもしれないな。十分なパートナーになれなくてすまないとか。よく言うだろう?自分が楽になるために謝ってるのかもしれない」
そういえば奈月の前でこれだけ状態が悪くなるのは珍しい。
「さあ紬、結婚しよう」
大切な人が作ってくれた素敵な髑髏を眺めて幸せを噛み締めていると、静かにライドシンバルを叩いた音が鳴った。
「今日、俺は必要だったの?」
吹き出してしまった。大丈夫だ。この二人となら、不器用なくせに私を守ろうとしてくれる人たちがいる世界でなら、私は生きられる。
「奈月、奥さんにさせてください」
ジンジャエールが差し出された。奈月はコロナを片手に持っている。乾杯をした。キス一つしなかったことは奈月の愛だ。ジンジャエールとコロナ、手作りのスカルで私たちは夫婦になった。
結婚する夜。誰もが孤独の苦しみから解放されたと思うだろう。私だってそうだ。このまま何の疑いもなく幸せになれて、子供ができて、お母さんになって、おばあちゃんになって。でも私たちには、二人がそばにいることがやっと認められる、そんな悲しいほどにささやかな人生しか許されないと宣告されたのに、奈月は取り乱さなかった。