無料連載小説|紬 14話 ベンチ
翌日、私はいつものように院内の外出を許可してもらい、病棟の外に出て一階の長椅子に座って純露を舌の上で転がしていた。今日は一階の駐車場に面した窓際にある長椅子を選んだ。特に変わった風景ではない、ただの駐車場に車が出入りするのが見える。いつか外に出るのかな。想像もつかない。ここはとても安全な場所な気がするし、ここから出たらまた私は壊れてしまうんじゃないかと思う。
窓の外には病院の職員さんがちらほらと行き来している。制服姿の看護師さんなんかはどこか後ろめたそうな印象だ。そんな駐車場を、いくらか偉そうに肩で風を切って歩いている人を見つけた。桐山先生だ。診察室とは全然違う表情をしている。こんなに目つきが悪い先生だっただろうか。いや、患者さんの目があるところでこんな酷い目つきで歩いていいのだろうか。私は先生をぼんやり眺めていた。
先生は私が座っている長椅子の前を通ると、窓越しに私に気付いたらしい。一度驚き、右手を上げた。そして左のポケットに入っているセブンスターの箱からタバコを一本取り出し、私に差し出した。窓越しにだ。私は手を左右に振っていらないと言ったが、手招きされた。軽い先生だ。ただ、そのあと先生は一度笑った。断る気持ちになれない笑顔だった。
私は玄関へと急ぎ、先生のところへ向かった。先生はさっきの長椅子の向かいに立っている。半袖の白衣とはいえとても暑そうに八月の日差しを受けていた。また鬱陶しそうな顔をして。だけど私に気付くと、さっきの笑顔に戻った。
「私、タバコ吸わないです」
「俺、吸うから付き合って。昨日はアリス・イン・チェインズを一晩聴いてきた。仕事をする気になれない」
口説かれてるのかな。でも本当なんだろうか。一晩中聞けるような爽やかなバンドじゃないのに。
「先生はどのアルバムが好きですか?」
「DIRT。そんな話がしたかった。喫煙所があるんだ。日陰に灰皿とベンチがあって、陽の光が当たるところには2本の向日葵が植えてある。なんで2本だけなのかはよくわからないけど、夏らしさを感じる。病棟に向日葵の一輪挿しがあっても色気がないだろ?向日葵は外で見るもんだ」
なんか口調が違う。そして断るとか断らないの前に、私はもう行くことになっているみたいだ。口を挟む前に先生が行ってしまったので私は後を追うことになった。
私は建物の影になった駐車場の一角に初めて踏み入った。確かにベンチが二つ、灰皿を囲っている。そして日なたには2本の向日葵が見える。桐山先生は勝手に座って、何がそんなに憎たらしいのか分からないほど医療関係の人らしくない顔をしてタバコに火をつけた。そして優しい顔をしてまた手招きをした。隣に座ってしまったが、一言伝えなければならない。
「私はタバコを吸わないです」
「音楽の話をするのはタバコを吸いながらって、昔から決まってるんだ」
結構勝手な人らしい。
「アリス・イン・チェインズ、好きなアルバムを教えてよ。ライブ版もスタジオアルバムも、全部持ってる」
好きなアルバム。
「DIRT」
先生は優しげな表情から嬉しそうな顔に変わった。
「今度はちゃんと治療するよ。俺のことは奈月でいい。奈月先生とか呼んでおくと自然だろうな」
奈月。向日葵を見る月。タバコくさい月。優しいのか擦れた人なのか分からなかった。だけど奈月は、それなりに内向的で破滅型の人間だから私に声をかけてくれたんだろう。奈月まで壊れる必要はないんだよ。自分を壊す必要はないんだよ。