無料連載小説|紬 11話 歯科診療室
電子カルテの使い方は覚えた。主要な精神科疾患の文献も読んだ。「ご家族のために」と書いてあるリーフレットだ。これで俺も立派な精神科病院の歯科医師だ。あとは患者を待つだけだ。
衛生士は25歳くらいの女で美玖というそうだ。おそらく手を出したら生理が来なくなるタイプの女だろう。話をするときの距離の近さと上目遣いになっている顔の角度。危険な物件だ。この手の輩を避けるために俺は行きずりのセックスを繰り返してきた。結婚してガキができて喧嘩する。そんなことを繰り返しながらガキは親元を離れ、孫を作る。みんなに見守られて素敵な棺桶の中で寝転ぶ。一回の射精以下の幸福だ。
しかしこんなところで突っ張っていても仕方がない。
「桐山奈月、30歳。女性経験はそこそこのタフガイです」
丁寧に自己紹介をしたところ、美玖は笑っていた。帰ってきた言葉の意味を、この時は深く考えなかった。
「患者はプシュってますから、適当でいいですよ」
どうせ精神科の患者で、頭がおかしいんだから真面目に治療しなくてもいいという意味あいだ。あまり好きな言葉ではないが、衛生士が言うなら適当でいいんだろう。
感性の死んだ人間が吐く言葉は嫌いだ。他人の受け売りや物真似でしか何かを表現できないからだ。例えば愛してると言っても、誰かの愛し方と俺の愛し方は違う。言葉は本当は繊細だと思う。事象を言葉で一般化すると世界は退屈になるし、個別の事象をそれぞれ独立させて捉えると世界は雑然とする。俺は後者の言葉で表現される愛情を紬に注いでいると信じたい。俺たちは、俺たちにしかない未来を探して苦しんでいるんだから。