「変わるもの」と「変わってしまうもの」~映画『本日公休』~
台湾の常連客が通う「街の床屋」を経営している、女主人のアールイさん。
毎日常連客の髪や髭を整えつつ、離れて暮らす娘や息子のことを考えるなど、変わらない生活を送っています。
そんな彼女が、遠くから通ってきていた常連客が病気になったことを知り、彼の髪を切りに行く……。
いかにも「お涙頂戴」といったストーリーですよね。
登場人物の身にとんでもない大事件が起こるわけでもありません。
……いや、毎日同じ店で、同じお客の髪を切り続けているアールイさんにとっては、遠くまで車に乗って髪を切りに行くのは大事件なのかもしれませんが。
そんな日常の中の「小さな大事件」を、優しく描いた映画です。
この物語のなかには、「変わらないもの」の良さと「変わってしまうもの」の儚さ、そのふたつが漂っています。
小さな床屋を、年齢を重ねて膝を痛めつつも「私が辞めたら、お客さんはどこで髪を切るの」と続けるアールイさんが守っているのは、「変わらないもの」です。
髪を切るだけでなく、お店で顔を合わせては世間話に興じるお客さんたち、その日常を過ごす場所自体を「変わらないもの」として守り続けています。
なにかと「変化」を求められる時代ではありますが、こういう変わらないものも良いものだ、と思えますね。
その一方で、病に倒れて髪を切りに来れなくなってしまった常連客。
もはや意識もない彼の髪をアールイさんは整え、髭を剃ってあげます。
そして帰宅してから、その常連客の名刺を握り潰すシーン、ここに「変わってしまうもの」の儚さ、そして美しさが詰まっていました。
そしてアールイさんが、これまでも同じように、連絡が取れなくなった常連客の連作先を処分してきた、その歴史を感じさせられるわけです。
いつかアールイさんが床屋を続けられなくなったとき、常連客たちは逆にお店の連絡先を処分するのでしょう。
「変わらないもの」は永遠ではありません。
「変わらないもの」と「変わってしまうもの」は、別のものではなく、同じものの裏表です。
当たり前のことですが、当たり前のことだからこそなかなか気付けない部分。
その気付けない部分を改めて気付かせてくれたのが、『本日公休』が私にとって素敵な作品として心に刻まれた理由なのだと思います。