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#34 「似てる」はどこまで許されるのか?-パクリ許容の境界線は「ゆず」?-

24/11/18: 300 views達成!皆様ありがとうございます!
好評につき一部リニューアルしました。

ライターのフカイです。
さて、大ネタです。本note恒例の話題「パクリ」「パクリでは無い」論争への言及ということですが。


ふと最近、あるミュージシャンの曲をサブスクで聴き直していた。2人組フォークデュオ「ゆず」のアルバムである。彼らの曲は日常の「ふとした瞬間」に聴きたくなる絶大な効果があって、そんな曲をプレイリストに収める作業をしていた。

自分はライブに行くようなゆずのファンではないが、以前noteでつぶやいたこともあるように、折に触れ彼らの曲を聴いて愛好するリスナーである。



ゆずのターニングポイント

彼らの一つのターニングポイントと思われるのが、アルバム「スミレ」から「1~ONE~」の頃(2003–2004)だと思う。「スミレ」はフォークデュオとしての素朴さを多分に残した作風だったが、「1~ONE~」に先行して発表されたシングル曲「桜木町/シュミのハバ/夢の地図」は、どれも充実したアレンジが印象に残るポップソングであった。


私がゆずと出会ったのはこの少し前の小学生の頃だった。フォーク路線の曲が好きだったのもあり若干戸惑ったが、曲としての完成度の高さを感じおおむねこの転換を好意的に受け入れていたと思う。そしてゆずはその後、このポップ路線をぐんぐん突き進むことになる。そして現在のゆずの形もこよなく愛らしいことを、ここで付け加えておきたい。


ただ、大人になって聞き返すと明らかに気づくことがある。
ゆずはこの「充実したアレンジ」を、「有名曲の明確なパロディ・オマージュ」によって手に入れているように感じるのだ。


有名洋楽を明確にオマージュ

例えばこの「1~ONE~」に収録された「シュミのハバ」のアレンジは、エルビス・コステロオマージュ。


同じシングルに収録された「夢の地図」のイントロは、びっくりするほどJackson 5である。


「ONE」に続くアルバムは「リボン」。「リボン」に収録されている岩沢曲「夕立ち」は素晴らしい歌詞とメロディの曲なのだが、アレンジはびっくりするほど「Be My Baby」である。


「今夜君を迎えにいくよ」事件

こうして言及していくと枚挙に暇がないが、個人的に「戦犯」レベルまで行くと思っているのが北川作の「今夜君を迎えにいくよ」というアルバム未収録曲だ。商業的効果が無いから良いと思ったのかもしれないが、その後のベスト盤「ゆずのね」には、ある種の「引き」として(今まで収録されていなかった曲として)収録されている。何に似ているという話はあえてしない(洋楽ではない)が、あまりにも「そのまんま」で、大人になって聞き直した時、口あんぐりになった。

まさかのオフィシャルYouTubeで聴ける!


ゆずだけじゃない

ただし、これはゆずの2人だけを集中的に責めたい記事ではない。

まず一つ言えるのが、ここまで挙げた先行曲(リファレンス)はいずれも超がつくほどの有名曲であり、「バレるかバレないか」という次元の話では無い。ミュージシャン側が明確にオマージュの意図を示していると言っても良い。

そして、同一の曲に対するオマージュをしたJ-POP曲はいくらでもある。
エルビス・コステロのオマージュは日本人が大好きらしく、Mr. Childrenにしろ福山雅治にしろやっている。



Jackson 5オマージュなんて言い出せば、先例はたくさんある。モータウンサウンドはJ-POPに馴染みやすい。



なんでかわからないが、特に訴訟や大きな話題にならずやりくりされている日本の「パクリ事情」があるようだ。「負けないで」「雨上がりの夜空に」のような日本の代表曲とまで思えた曲達にも、明確な元ネタがあっつことを知った時は驚いた。本記事は残念ながら、その状況を調査する所までは至らない。


「アンジャッシュ渡部」現象

ゆずがやっている「有名曲の明らかオマージュ」には、「アンジャッシュ渡部」的な危うさを潜んでいる気がしている。ゆずの2人は明確に「パクりますよ!」というスタンスを感じさせない。2人の見た目や話し方など、いかにも「良い人そう」というパブリックイメージがあるはずだ(コアなファンがどう思うかは置いておいて)。こういったイメージが先行した状態で「パクリ」を問われると、非常に危ういのではないか。


一方で、洋楽オマージュで飯を食っていると言っても良い、サザンオールスターズ・B'z・THE YELLOW MONKEYなどなどのバンドは、個人的には「いくらパクっても責められない」と思っている。これは彼らが、千鳥大悟や狩野英孝レベルまで(何がかはお察し頂きたい)行っているように思うからである。ある程度大胆にパクった上で、お得意の味付けをするのに彼らは慣れている。


ゆずが発するメッセージ

ただ一つ、ゆずは隙を見せてくれている所もある。ゆずは曲タイトルに「有名曲とほぼ同じ」タイトルをつけることがある。これは「善人イメージ」をもつゆずから発せられる「僕らだってパクリますよ、そりゃ」のメッセージなのかもしれない。

ゆず「終わらない歌」


ゆず「守ってあげたい」



「パクリが許される境界線は、結局ミュージシャンのイメージ」。仮にこの説が正しいと考えると、さて許されるのは一体どんなミュージシャンまでであろうか。その境界線に立っているのが「ゆず」であるようなそんな気がしてならない。
先行するイメージをどう使っていくか。これは我々誰しもにとっての教訓になる話でもある気がしている。

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