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人生って旅は「自由」を求めるためにあるのかもしれない
なぜ人は死ぬことがわかっているのに、誰かを愛したり、傷つけるのだろうか。生きた証をここに残すため?それとも何かほかに理由があるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなるし、それを見つけるのが人生の醍醐味なのかもしれない。
人は人を愛す。そして、傷つける。同じ過ちをなんども繰り返し、痛みや優しさを知る。どうせ死ぬならこの際、何もしない方がいいのかもしれない。大切な人や誰かのものを、奪い合うなんてもってのほかだ。自分の安寧が脅かされない限りは、戦う勇気すらも持たなくていい。でも、自分や愛する人の安寧が脅かされそうになったら、僕は絶対に全力でそれを阻止するのだろう。
人々は自分たちの生活を守るために、法律を作った。最初に法が作られたのは紀元前1750年のお話。メソポタミア文明のウル第三王朝の・初代王ウル・ナンムがウル・ナンム法典を作った法律が1番最古らしい。ハンムラビ法典が1番最古だと思っていたんだけれど、どうやらウル・ナンム法典の法が先らしい。
昔から法は人を守ると信じられてきた。そして、法で人は守られ、法によって人は裁かれてきた。日本では701年に制定された大宝律令が1番最古の法律だ。。
法は平等だ。誰もが法の名の下で「生活を営んでいる。法は人を守るためにあるが、どうあがいても法を破るものもいる。法の抜け道を探し出すプロってやつがどの時代にもいるようだ。なんとももどかしいもので、そんなやつが幸せの蜜を啜っているなんて許せない。
なぜ人はい生まれて死ぬだけなのに、ドラマを求めるのだろうか。地位や名声、巨万の富も死んで骨になれば、自分のものではなくなる。その事実を誰もが知りながらも、地位や名声、巨万の富を求め続けているのだ。
神様は平等に不平等を与えるらしく、その不平等が大きいと感じるものもいれば、それぐらい屁でもねぇっすよと笑い飛ばす人もいる。平等に不平等は言葉にすれば、理解できるが、実際に不平等を与えられてしまうと、「なんで自分だけがこんな目に遭うんだ」と悲観的になってしまう。
死んだら骨だけ。でも、限られた生の中で、人々は何かを残そうとする。それが愛なのか。地位や名声なのか。巨万の富なのかは、人によって変わる。それぞれの人生にそれぞれのドラマがあって、ドラマの脚本の作り方は、誰にも決められていないものだ。
だから自由に生きればいいのだけれど、自由な生き方を人々は知らない。社会の歯車の中で生活を営み、いつか抜け出せるであろう鳥かごの外をずっと夢見ている。「自由」とはなんなのか。その定義も人によってちがう。でも、人は必ず死ぬという事実だけは、人類の宿命であり、逃れられない運命なのである。
自分にとっての自由の定義もちゃんとわかっていない。だから、この人生の旅は、「自由」の定義を探しに行く旅でもあるのだろう。それぞれの人生に、それぞれのドラマがある。だから、死ぬまではきちんと生きて、自分が描いた脚本を演じ続けようと思うんだ。
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