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人の気持ちがわからない人間だった
人の気持ちがわからない人間だった。その状況を変えたいと思った事はあるけれど、最終的には自分の気持ちがわからないのに、誰かの気持ちなどわかるわけがないと開き直る始末。相手の気持ちを考えずに、言いたいことをお構いなしに言っていた。それに対して、怒りに身を任せて感情をぶつけてきた人もいれば、疎遠になった人もいる。
大学時代、専門学校に進学した後輩が就職について悩んでいた。大阪で就職するか、東京で就職するか。その人には上京したいという夢があると知っていたため、迷う必要はないと思っていた。自分の夢を叶えればいい。ただそれだけで済む話なのに、その人はずっと悩んでいた。意味がわからない。
当時その人は家庭で問題を抱えており、上京したくてもできない状況だったようだ。その事情を知らない僕はその人に「行きたい方に行けよ。悩む理由がわからない」と無神経な言葉を放った。すると、「何も事情を知らないくせに口を挟んでこないでください」と返ってきた。何も言い返せなかった。行きたいと言っていたから背中を押してあげたかった。それはこちらのエゴに過ぎない。お節介は相手の心を傷つける刃へと成り下がっていた。体の奥底から悲しみが込み上げてくる。こいつには何を言っても無駄だと僕はその人を見放した。いや、見放されたのは僕だった。それ以降、その人とは一度も会っていない。
相手の気持ちを考えられない人間は、簡単に人を傷つける。その無神経さはやがて己の首を締め付けた。きっとその人以外にもたくさんの人を傷つけてきたのだろう。何気なく放った言葉が相手の心を抉り取る。その繰り返しの中を生きてきた。何度も後悔した。だが、失ったものは二度と戻ってこない。さらなる絶望が喉の奥へと入り込んでいった。
人の気持ちがわからない。だが、このままではダメだ。人の気持ちを理解したいと思った。人とのやり取りを重ね、その都度修正を繰り返す。この方法を採用した場合、自ずと自分から人が離れる回数が増える。それによってやがて自らの心は崩壊を迎えるのがオチ。だから、何かに縋るしかなかった。自らが傷つかずに人の心を理解できる方法はなんだ。どれだけ頭を振り絞ってもその答えがわからない。ある日、小説を読んでいると登場人物が同じような悩みを抱えていると知った。その人の気持ちが手に取るようにわかる。同じ苦しみを背負った人間がいると安心した。だが、小説を読み進めていくうちに、その登場人物以外の心理描写もあると気付いた。これは世紀の大発見だ。そこから家の中にあるさまざまな小説を貪るように読み返した。
人に怒りの感情が芽生えるときはこのようなシチュエーションなのか。悲しみを抱いたときに人が突拍子もない行動を起こすのは、行き場のない悲しみを発散するためのものだったのか。自分の考えだけでは得られなかった様々な感情が脳内にインストールされていく。人の気持ちを知る行為は楽しく、時に理解し難いものだ。そして、何も知らなかったが故に、たくさんの人を傷つけていたと自覚するきっかけでもあった。無知は人を傷つける。それも知らないうちに傷つけているのだから、かなりタチが悪い。どれだけ後悔しても失ったものは元には戻らない。大切なのはこれからどうするかだ。これから出会う人を傷つけない人間になろうと決心した。
自分の気持ちがわからないのに、相手の気持ちがわからないのは当たり前だと開き直る過去はもうどこかに置いてきた。相手の立場に立って、物事を考える。その行為を思いやりと呼ぶらしい。0か100でしか物事を考えられない僕はやがて相手の気持ちを優先する人間になった。その結果、自分を無碍にする回数が増え、損な役回りをする回数が増えたような気がする。全ての行動は回り回って自分のためだ。それが事実だとするならば、全ての元凶は自分にある。相手だけでなく、自分も得をする道を模索できる人間でありたい。心地よい人間関係を築くために、日々自分を磨いていこう。
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