他人の感動ではなく自分の感動で感動したい
ある夜の日、友人数人でバーにサッカーの日本代表戦を見に行った。
お酒を楽しみながらサッカー観戦をする僕ら。みんなでわいわいするのが苦ってだったから端っこの方でこっそりと観戦していた。
味方のシュートシーンで心が高揚し、相手のシュートシーンで心が焦る。ゴールシーンではまるで自分のことかのようなガッツポーズ。そして、見知らぬ人たちと交わすハイタッチ。
スポーツが僕らの距離をグッと近づける。なんだか知らない人と仲良くなれたような気がして、スポーツの力をこれでもかと思い知らされた。
お酒を片手にワイワイと騒ぐ観衆。スクリーンに映し出された代表選手。映し出された代表選手があまりにも尊すぎて、自分が過去にサッカー選手に憧れたあの日々のことをふと思い出す。
なんでサッカー選手になる夢を諦めたんだっけ?
そうだ。周りが上手すぎてとてもじゃないけど勝てないと自分から勝手に諦めたんだ。夢を諦めてからは遊び感覚でサッカーをするようになっていた、
夢を諦めたことがきっかけで、僕は好きなことは別に仕事じゃなくても良いと本気で思ったんだよ。
一度何かを諦めると、その諦めグセはなかなか直らなくて、どんな物事も勝てる土俵でしか勝負しなくなる。
勝てる相手としか戦わないなんて、ドラクエで最初の方に出てくる弱いスライムを倒してるようなもので、つまらないし、経験値も全然上がらなかった。
サッカー観戦の帰り道の途中、なぜか突然の虚無感に襲われて、何もしていない自分に嫌気が差す。
なんで嫌気が差してしまったんだろうか?ふと足を止めて考えてみる。
そうか。他人が作り上げたもので感動するのが許せなかったのか。サッカーは僕がフィールドに立っている訳ではく、代表選手がフィールドに立っている。
僕は観客側でプレーを魅せられる側の人。それがなぜか嫌になってしまった。
自分が何もしていないことが嫌だった。だから他人が作った感動で感動する自分が嫌だったんだ。
他人の努力の結晶でお酒を飲む自分がなぜか許せなかった。自分のことでもないのに感動しちゃったりして、なぜかいたたまれないそんな気分。
誰かが作った感動でサッカー代表選は僕が作った感動じゃなかった。
あれ?何やってんだろ?
僕は観客側で代表選手たちにただ感動を見せられただけだった。ステージに立つ側じゃなかっただけのお話。
僕だって自分で自分の感動を作る側に回りたい。
本気で感動を作りたいと思ったサッカー観戦をしたあの夜のこと。
文章で誰かを感動させられるのだろうか。
感動じゃなくて良い。誰かの心に少しでも刺さるものを作りたい。
ああ、もう自分の感動ぐらい自分で作らせてよ。