ずっと自分探しをする人が好きじゃなかった
たくさんの人が、大学生のときに自分探しの旅に出ていた。海外に行く人もいれば、国内を回る人もいる。その一連の行為で自分を見つけた人を見たことがない。就職活動では自己分析を行った。生まれてからずっと一緒にいる自分のことなのに、どうして自分でわからないのだろうか。意味がわからないと思っていた。
自分のことは自分が1番よくわかっている。それが当たり前の話で、僕も自分自身をきちんとわかっていると思っていた。20歳のときにはじめた年齢ノート。そこに綴った数々の思い。読み返すたびに自分のことを全然わかってない事実に愕然する。自分のことを書いているはずなのに、上澄みを掬ったような薄い言葉が綴られている。わかっているようで実際は全然わかっていない学生時代を過ごしていた。
頭の中にある言葉を取り出そうとしても、なかなかしっくりくる言葉が出てこないまま時間だけが過ぎていく。自分を知るって想像以上に難しいものだ。頭の中にある上澄みを掬ったような薄い言葉を自分自身だと勘違いする。これも違う。あれも違う。出てくる言葉を見るたびに焦燥感が募っていく。次第に苦しいという感情が芽生えてきた。自分を知ることは楽しいものだと思っていたのに、想像を遥かに超えるつまらなさだ。
自分という人間は一体どういう人間なのだろうか。いろんな場所を探してみても、答えが見つかるどころかどんどん謎が深まっていくばかりだ。それでもどこかに自分はいると信じたい人間がいて、そこから逃れるのにかなりの時間を要した。
苦しさを乗り越えなきゃ楽しさはやってこない。つまらないと思うものはいつだってできないままの自分だからだ。どんなこともできるようになれば楽しくなる。そう気づいたのは、生みの苦しみとそれを乗り越えた先にやってくる楽しさと出会えたためだ。
書いて消しての繰り返し。反復運動を続けていると、次第に言葉という筋肉がついてくる。今はnoteで心情を綴るようになったけれど、それでも自分のことがわからなくなるはやってくる。そのたびにPCを開いて、自身の心情を綴って、心の整理を行う。そうやって自分なりに模索しながら毎日を過ごしているのだ。
自身から芽生える感情から逃げ出す人よりも、自分探しをしている人の方が断然かっこいい。自分と向き合うとは、現状から逃げ出さないことを意味する。逃げ出す人よりももがく人でありたい。必死にもがいていれば、いつかどこかで光明が差す。そう信じているからこその願いだ。
頭から言葉が出れば出るほどに自分を知らないと思い知らされる。と同時に、新しい自分と出会う喜びとも出会える。今日もこのようにして、自分の思いを懸命に言語化している。まだまだ納得がいく言葉は出てこないけれど、たくさんの言葉と出会ったり、経験を積み重ねたりすることで、新しい自分やこれまでに気づかなかった自分を知っていきたい。