Aメロにもなれない人生
四季を楽曲でたとえるならば、秋はCメロ辺りだろうか。
空を見上げれば、満点の星空が広がっていた。鈴虫の鳴き声なんかも聞こえてきて、本格的な秋がはじまった模様だ。鳴りはじめた楽曲はCメロに突入したというのに、恋も仕事もうまくいかない私の人生はAメロすらはじまっていない。「好き」だと言ってくれたあの男の言葉は全部嘘だったし、仕事ではまったく悪くないのに平謝りばかりさせられている。
今日も仕事で私が関わっているプロジェクトのミスが発覚した。一度書類を確認すれば、簡単に防げたミスだ。おかげさまで「こんな簡単なことができないのか」と上司に1時間以上叱責されたけれど、なんとも思わない。怒鳴るのは相手が自分を制圧したいだけ。相手の気が済んだら終わる。それまで耐えればいい。だから、平謝りだけして、話を適当に聞きながら、今日の夕飯を考えていた。
自責と他責。どちらを選べばいいかはちゃんとわかっているくせに、誰かのせいにして楽になりたいがいつも勝つ。どうやら他責ばかりの組織は成長しないらしいけれど、その典型的な失敗例が私たちの組織である。私は何にも悪くない。全部同僚の失敗だ。そうやって成長できない今日を生きている。
「君には不幸がよく似合うから幸せにならないでね」と昔付き合っていると思っていた男に言われた覚えがある。「私の何を知っているんだ」と今なら言えるかも。そう思っただけで、あの日からずっと自ら進んで不幸を選び続けている。失敗から学ばない私は性懲りもなく、自分を傷つける人ばかりを選ぶ。どうやら私は幸せになる選択を選べないらしい。
恋愛、片方はうまくいっていると思っても、もう片方が都合のいい相手として接している場合がある。そんなの恋愛は昼ドラだけの世界だと思っていた。はじめての恋愛は性欲だけ消費されて呆気なく終わって、本当に昼ドラみたいな酷い男がいるんだと感心した。このような恋愛を都合のいい関係性と呼ぶみたいだけれど、そんなものはもはや恋愛とは呼べない。
週末を控えた金曜日の夜に街は浮き足立つ。駅前はどこも人がいっぱいで、客引きたちが仕切りなしに声をかけ続ける。そのような光景を目の当たりにするのが恒例行事。必死で声を掛けても、ほとんどが無視されるのがオチ。私には客引きたちの気持ちが痛いほどにわかる。届きそうで届かないものにずっと手を伸ばしているあの感覚だ。元彼だと思っていた人は全員が私からのLINEや電話は全部無視するくせに、相手のタイミングでいつも連絡をしてくる。彼からの連絡に一喜一憂する毎日は、苦しいけれどやめられない。
そうしていつ来るかわからない向こうの「会いたい」には、昼夜を問わず応じ続けた。一緒にいないときはなにをしているかがわからないから、一緒にいる時だけ愛してくれていればそれだけで幸せを感じる。たとえ彼が言う「好き」に感情がこもっていなくても、私は言葉だけを信じる都合のいいやつだ。
少女マンガみたいな恋愛はどこにも落ちていないし、ディズニープリンセスが言う「真実の愛」はただの紛い物でしかない。その証拠にこの身を捧げてもいいと思えた恋愛は全部私の勘違いだった。誰かに本気で愛されたことは一度もない。もはや最初から愛されない恋愛ばかりをしている。恋愛に傷付けられ、無垢だった感情はどんどん汚れていく。いつしか幸せを望むべきではないと思うようになって、低かった自己肯定感はますます低下した。
私には幸せではなく、不幸がよく似合うと思うようになったきっかけは恋愛だ。大切にされないの繰り返しを生きていれば、誰だってそうなる。低くなった自己肯定感に優しさでつけ込み、必要とされていると錯覚させる手法に引っ掛かりまくった。もはや自分が幸せに生きている姿を想像できない。
そもそも幸せってなに? 好きな人と結婚して、子どもが産まれて、マイホームを買ったり、休日に家族でお出かけをしたりする感じかな。それが世間一般の幸せならば、私は向こう岸にいる人間だ。幸せになる方法よりも不幸になる方法のほうが簡単に想像できる。なにをやってもうまくいかない自分が現にここにいるし、いまの生活をずっと継続すれば、一生幸せを掴むことはないのだろう。
私には「らしい」という口癖がある。「らしい」を使う理由は、他人行儀な言葉で自分を懸命に守るためだ。要は自分の選択が間違っていたと認めたくないだけ。自分の人生をまるで生きちゃいない生き方は、私を都合よく利用したい相手に簡単に消費され続ける。現状を変えたいのであれば、自分の現状を見つめ直す必要がある。でも、失敗を認めない生き方を選ぶほうがずっと楽だ。
私は幸せになることが怖い。こんな自分が幸せになっていいと思えないし。幸せな自分を想像できない。いつも頭に思い浮かぶのは、泣いている姿か怒っている姿だ。不幸を誰かのせいにして、悲劇のヒロインのままでいたい。舌でも出して、またやっちゃったよなんて言いながら、誰かに慰められてもらえるるうちはずっと慰められていたい。自分を大切にしない生き方をすれば、いずれ大切なものを失うと言われても、こんな出来損ないと一緒にいる人のほうが可哀想だと思うから、さっさと1人にしてほしい。
いつだったか、友人から「何のために生きているの?」と問われた。生きる理由なんて考えたことがなかった私は「生きる希望もなければ、死ぬほどの絶望もない。だから生きているだけだよ」と返した。「そういうところだよ」と言われても、どういうところなのかわからないし、教えてくれと言ったところで、自分で考えなよと言われるのがオチ。そもそもこの人生に意味を求めること自体が間違っている。
空を見上げれば、満点の星空が広がっていた。Aメロにもなれない人生が少しだけ愛しくなった。