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ぼくの周りには、やさしい人がたくさんいる

「サトウさん、あなたこのままだと左目が失明しますよ」

担当医が、いつも通りの声色で言った。

2019年9月にベーチェット病を発症したぼくは、現在も治療を続けており、いまは左目がほとんど見えていない。注射をしながら病気の進行を抑えている状態で、どうやら失明する可能性も現実味を帯びてきた。

担当医の冷静かつ鋭すぎる一言は、じぶんをどん底に突き落とすに値する言葉だった。左目の視力は、もうほとんど回復の見込みがないみたい。回復するどころか最悪の場合は、失明してしまう可能性だってある。目が失明するかもしれないんだぜ。そりゃ落ちる。とことん落ちるし、猿も木から滑り落ちる。そのぐらいの勢いで落ちた。もうなにもかもどうでもよくなった。

続けて担当医は、「目の注射は根本から病気を治すわけではなく、炎症を抑えているだけです。根本から病気を治すには違う注射を打つ必要があります。でも国から難病指定と認められなければ、注射は3割は自己負担で、毎月高額の医療費がかかってしまいます。いまのサトウさんの症状は目の症状しか出ていないので、難病指定と認められるのは難しいでしょう」

なんだよ、それ。治す方法があるのに、難病指定の認可が降りていないから、バカみたいな大金がかかるだなんて、理解したくないよ。

「ばか。なんのための医者だよ。病気を治すための医者だろ、難病に指定されていようといまいと症状はこうしてちゃんと出てる。失明の可能性だってあるんだから、指定患者と同じ金額で治療を受けさせろよ。」と喉から言葉が出てきそうだったけど、グッとこらえた。

じぶんの感情をうまくコントロールできるなんて、すっかり大人になったものだ。担当医もちゃんとした治療を受けてもらうために、必死になってくれているのが伝わっている。だから、自分本位な言葉を投げかけてはいけない。

どうやら難病指定に認可されるには、目のブドウ球菌以外に2つの症状が出なければ、認可が降りないらしい。目以外はほとんど症状が認められていないいまの僕に難病指定の認可は降りない。目の注射は根本を治すものではなく、症状の進行を抑えるだけ病気を根本から治すには注射が必要となる。だから、高額の医療費を払って根本から治すがいま1番の得策のようだ。

治療にかかる大金を支払う余裕は、いまのぼくにはない。だから、もう3回も両目に注射をしている。最初の注射はたまらなくこわかった。注射をするときに、担当医に「助けてください」と言うと、「今から助けるんですよ」とツッコミどころ満載の言葉で、笑わせてもらったこともいまでは懐かしい。

でも、慣れとはこわいもので、いまでは目に注射をされても、なんとも思わなくなっている自分がいる。注射がいったいいつまで続くかはわからない。難病指定の認可が降りればいい。でも指定の認可が降りるといろいろと厄介なことがあるから、降りなくていいと思っているじぶんもいる。

じぶんは前世でどんな悪いことをしたんだろうか。前世のじぶんの非行を激しく恨んだ。いや、前世じゃなくて、今世で悪いことをしたのかもしれない。どれだ。いったいどれだ。思い当たる節はいくらかあるけど、失明の可能性に至るまでの悪事ではないはずだ。でも、失明が現実味を帯びているこの状況が起きているのは事実だ。原因なんかもはやどうだっていい。

失明の可能性がある現状を認めたくない。右目を注射することになり、ただでさえ見えない左目で少しの時間生活することがたまらなくこわくなった。注射をする前に目に麻酔の目薬をさす。そして、麻酔の効果が出てくるまで、1人でぼーっと待合室で待つ時間が続いた。

注射の待ち時間に、1人ではどうにもならなくなったぼくは、気づくとLINEを開いていて、現状の報告を友人にしていた。するとこんな返事があった。

我慢の限界だった。泣いた。気がつくと病院で、1人で嗚咽を漏らして泣いていた。最近は慣れない環境にいることが多くて、精神が安定していない時間が多い。慣れない環境に加えて、担当医からの「左目失明の可能性宣告」がぼくにトドメをさした。

嗚咽を漏らして泣いているじぶんの姿に、看護師さんは驚いていた。そりゃそうだ。28歳の男が病院内で急に涙を流すんだもん。そりゃびっくりするに決まっている。でも、そんなことはどうだっていい。人目を気にする余裕なんて、ぼくにはとっくになかった。自分の溢れ出す感情を抑えるなんてとうてい無理だった。

看護師さんに応援されながら、右目の注射の手術は終わった。ほんの少しだけ期待してみたけど、左目はほとんど見えないまま。わかっていたことだけど、現実になるとやっぱり辛い。

病院に行く前は太陽が出ていた外は、すっかり暗くなっていて、普段は自転車で5分で帰るところを20分ぐらいかけて徒歩で帰った。その後、いろんな人から電話やメッセージがあった。改めてぼくは1人じゃないと気づいた。

友人と電話しているときに、「なぜこんなにいい人ばかりが自分の周りにはいるんだろうか」と質問をしてみた。

「そりゃリョウタくんが、周りにたくさんいいことをしているからでしょう。悪いことをしている人を、周りは助けようとは思わんやん?少なくともぼくなら絶対に思わない。リョウタくんの周りにいい人がいる理由は、きっとそういうことだよ。あまり深く考えなくていい。今はとことんまで落ちる。そして、頼る。いいね?」と返ってきた。

友人の優しい言葉に、また泣いてしまった。でも電話を切ったあとに泣いたから、友人はぼくが泣いていたことはきっと知らない。じぶんの涙なんて、友人は知らなくていいのだ。

辛いときに助けてくれる友人や家族がいることが、なによりもありがたかった。病気になってひとつだけ良かったことを挙げるとするならば、それは「ひとのやさしさに触れた」ことだ。

ぼくはどう考えても、ひとに恵まれすぎている。感謝という言葉では生ぬるいかもしれないけど、心の底から周りのひとに感謝をしている。

病気の治療は続くけど、まだ失明すると決まったわけではない。落ちるときはとことん落ちる。ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと睡眠時間を確保する。そして、ぼくの周りにはやさしいひとがたくさんいることを忘れない。

辛い時期がまだまだ続くけど、いまのじぶんならきっと大丈夫。なんとか生きてみせる。

やさしいひとたちをちゃんと大切にする。

みんなありがとう。

ぼくはたくさんのひとに恵まれている。自慢できることはほとんどないけど、ぼくが唯一自慢できることは「周りにやさしい人がたくさんいる」ってことだ、

ああ、なんてぼくは幸せ者なんだろうか。

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サトウリョウタ@毎日更新の人
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