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ただ気丈に振る舞うのが得意なだけ

ふとした瞬間に過去に書いたものを読み返して、もっといい書き方があっただろうと胃の辺りを抑えながら悶絶する。同じテーマでまた新たに文章を書き足しての繰り返し。それでも文章がブラッシュアップされないときは、もう書くことを放棄して、それらは下書きと呼ばれる屍に成り下がる。せっかく言葉にできたものを放棄する行為は後悔に近い。たくさんの屍の山を積み上げてきた。語彙力のなさと申し訳なさが相まって、ただ茫然と立ち尽くす。

考え方はその都度変化する。いい変化もあれば後進したと感じるときもあって、いつまでも地続きの自分を見つめることをやめられない。考え方をアップデートするために懐かしい人と会ったり、新しい人と出会ってみせたりする。感傷に浸りたいのか、新たな自分との出会いを求めているのかどうかがわからない。

どちらかといえば、話すよりも聞く方が得意だ。相手の心情を考慮しすぎて、ストレートな言葉を使えない。誰かと交流するたびに開催される一人っ反省会。話せば話すほどにボロが出るなら口を閉じていた方が賢明な気がする。それでも言葉を口にするのは、会話なしで人との交流を図れないためだ。ときにボーダーラインを乗り越えて怒られる。何も話さなさすぎて愛想を尽かされる。そのどちらも経験してきた。人は痛みを知って成長する。それが事実であるならば、いつかは抱えている痛みも救われるかもしれない。

気丈に振る舞うのが得意だ。よく人に弱みを見せるのが下手だと言われている。誰かに頼りたくないわけじゃない。むしろ頼りたくて仕方がない。人は一人では生きられないと知っているからこそ、誰かと共に生きていくことを猛烈に望んでいる。弱みを見せないのは、迷惑をかけていると感じたくないためだ。全部自分を守る手段で、要は人によく見られたたいという願望から逃れられないのだろう。ふとした瞬間にすべてがどうでもよくなる。何もかもに興味がなくなるのは、きっと自身の不甲斐なさを感じているためだ。もっと上手くやれたはずだと後悔しては、うまく弱みを見せられない自分を責めてきた。

たまに誰からも求められていないのではないかと不安になる。そんなことはないと理解しながらも、憂鬱な時間からは逃れられない。不安なのは暇なだけ。暇をなくしてしまえば、不安を感じる時間もなくなる。そうやって無理をしすぎた結果、過労でぶっ倒れた。加えて難病を発症し、たくさんのものを失った。後悔しても何も戻らないからこそ、今の自分に残っているものを見つめ直す時間を取った。ないものはないと諦める勇気。今目の前にあるものを失わないために何ができるか。この一連の動作は後ろ向き思考から来るものだ。ないものではなく、あるものに目を向ける。失わないではなく、今目の前にあるものを継続するために何をするか。ポジティブな思考で考えることで、人生が楽しくなってきた。ただ根拠のないポジティブは危険を伴う。だからこそ、いかにして根拠を持たせるかに頭を振り絞る。

自分の人生は他人の目にどのように映っているのだろうか。美しい景色が並んでいると嬉しい。そこから得たものが、人生を少しでも好転させるものであってほしいという願いもある。いつだって思い出は一人称で描かれる。たとえ美しいものじゃなく、醜いものだったとしても、自分語りで終わったとしても、これから先も「人生」を書いていく。







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