とっておきの口実
ずっと好きだったはずがいつの間にかあの人の好きなところをなにひとつ言えなくなっていた。あの人になんと声をかけたのかすら、もうなにも覚えていないのだけれど、私の言葉が別れのきっかけになったらしい。「らしいだなんて、他人事だね」と友人が言っていた。私はまだ別れをちゃんと受け入れていないかもしれない。かける言葉を間違えたこと、言いたいことをつい飲み込んでしまったこと。自分の心の駆け引きがうまくいかなかったこと。足りないものと多すぎたものを数えれば数えるほどに後悔の渦に苛まれる。
冬の寒さを凌ぐために、好きでもない誰かの体温を求めた夜。たくさんの人が行き交う夜の新宿は街一面がネオンに包まれているから安心する。道行く人は全員知らない人。そして、今日出会ったあの人も当然知らない人。一夜を共にしたあとは連絡を取らないし、名前はおろかその人の温もりすらも覚えていない。小手先だけの愛してるに耳を澄ませ、自分が求められているような気になっては、それがただの幻だったと現実に引き戻される。
冬の寒さはとてもいい口実になる。好きでもない人とばかり時間を共にして、好きだったはずのあの人の面影にずっと重ねていた。いまはもうあの人の好きなところさえ覚えていないのだけれど、好きだった事実がずっと頭からこびりついて離れないのはどうしてだろうか。あの人と一緒に行った新宿。今は少しだけ景色が変わり、変化に耐えられなかったふたりはそこにいない。
知らない人なのに、その人の腕に抱かれているときは安心する。腕の中に綺麗におさまる体。この夜が終わらなきゃいいのに、なんてつぶやいたところで、時間はそれを許してくれない。知らない人のおやすみの声を無視すると、私を抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった。知らない人の体温のはずが、ずっと好きだったあの人の顔が思い浮かぶ。
本当はあの人の特別のままでいたかった。特別な言葉はなにもいらないから。ただそばにいてくれることがどれだけ幸せだったのか。あなたはもう知らないでしょう。まもなく夜が明ける。朝を迎えるのが怖い。また1人になってしまうから。安心して眠りにつきたい。誰かの力を借りるのではなく、j自分ひとりの力で。好きだったあの人の面影はもう追いかけずに、自分が思い描く人生を追いかけていたいなんて考えているうちに眠りについていた。
目を覚ますと知らない人の姿はなく、ホテル代だけがその場に残っていた。