今ここで毎日更新を復活させようと思う
「サトウさん、このまま症状が悪化すると、最悪の場合、失明します」
これは薄暗い診察室で、担当医が僕に言った言葉である。
失明の危機は大多数の人間には縁の遠い話だ。それに加え、20代後半で失明の危機がある話はあまり聞いたことがない。でも、実際に、自分の目の前で、失明は現実的なものになりそうになったのだ。
白内障と眼圧を下げるために、15日間の手術入院をした。それに伴い、毎日更新も休止せざるを得なくなった。そして、時の流れは早いもので、毎日更新を休止してから早1ヶ月が経とうとしている。
目の症状が少し落ち着いてきた今ここで毎日更新を復活させようと思う。
「さあ、文章を書こう」と息巻いたのも束の間、一向に文章が書けない自分がいた。毎日文章を続けていた頃は、スッと言葉が出てきていたのに、入院で毎日更新を休止してから言葉がまったく出てこなくなった。書けない事実からの自信の消失。ただでさえ自分の文章に自信がないのに、これ以上なくなってしまうと、文章を書く行為自体が、嫌になってしまう可能性だってある。
5月の半分を病床で過ごし、他院してからすぐに、梅雨入りを迎えた。天候が不安定なまま時は過ぎていく。低気圧にやられている人もいれば、5月病になった人もいる。文章が書けなくなったこの事実を、5月のせいにするのは簡単だけれど、この問題はきっと5月のせいではなく、自分の心の問題だ。
「文章を書く力は筋トレみたいに、書き続けなければ、筋肉が落ちる」と、どこかで耳にしたことがある。もしその言葉が事実であれば、650日の毎日更新で、文章を書く筋肉は相当ついているはずだ。でも、使わない筋肉は徐々に落ちていくもの。そして、毎日更新を休止してから1ヶ月が経とうとしている。この1ヶ月間で文章を書く筋肉が相当落ちているはずだ。筋肉を身につけるには相当時間がかかるくせに、筋肉が落ちるのは一瞬だ。
自分が文章を書く行為を休止しているうちに、才能あふれる書き手たちがどんどん台頭してくる。文章を書きたい気持ちとは裏腹に、この1ヶ月間は目の症状が不安定で、文章を書きたくても書けない状態がずっと続いていた。いまもまた見えなくなるかもしれないという恐怖を抱いている。
文章を書きたいけど書けなかった事実が、ただただもどかしかった。そして、また文章を書き始めたときには、自分の居場所がどこにもないのかもしれないと考えると、書く行為そのものに焦りと恐怖を抱いてしまう。
どうやら人は自分が勝てないと認識した人には、嫉妬の感情が芽生えないらしい。僕はあまり他人に嫉妬しない人間で、友人が結果を出しても、素直におめでたいと思うし、このまま結果を出し続けてくれと思っている。戦うフィールドが違うから嫉妬を抱かないのかもしれないし、そもそも友人には勝てないと思っているのかもしれない。
でも、文章は違う。文章で結果を出している人には負けたくない。自分が休んでいる間に、いろんな書き手が台頭してくるその事実に焦りを感じている。何を持って勝ち負けなのかはわからないけれど、自分の中の負けず嫌いが発揮するのは、いつだって文章で結果を出している人を見た時なのである。
文章は不特定多数が読むもので、不特定多数からの評価が有無をいう。書き手はいくらでもいるし、結果を出さなければ、なかったものにされてしまうのが世の常だ。文章しかない自分から文章を取り上げれば、一体何が残るんだろうか。
何も残らないなんてことはないだろう。その事実はちゃんと理解している。でも、この焦りは日に日に大きく膨らんでいる。だから、今ここで毎日更新を復活させようと思う。もちろん無理をするわけではない。目の症状は少しずつ落ち着いてきていて、仕事に復帰できるようにもなっている。
文章で結果を出したい。そのためにはまず書く筋力を取り戻す必要がある。もちろん焦りと不安はある。でも、焦りと不安をプラスに変えて、きっといい文章が書けるはずだ。
こんなことを言うのは照れ臭いんだけれど、今日だけは言わせてください。
みんなただいま。みんなの支えのおかげでやっと帰ってこれたよ。本当にありがとう。そして、またよろしくお願いします。