夢は叶うと、誰かが言うけれど
世界は回る。飽きもせず、ただ回り続ける。そうやって、日々が少しずつ過ぎていく。今日は晴れ、明日も晴れ。それに比例しない心模様。雲が周りを覆い尽くす心情にいつしか雨が降っては、それを恵みだと気づけたり、気づけなかったりする。進めば進むほどに付き纏う不安。味方になったら万事解決。敵に思えたなら一寸先は闇でしかない。歩みを進めたものは来た道を再度戻ろうと思っても、戻り方すらもわからなくなっているのがオチ。
幼少期は、何にでもなれるといういわば無敵状態だった。テレビの前に現れるヒーローみたいに、いつか大きくなったら敵を倒すんだと、本気で信じ切る程度には純粋だった。それは自分への期待感の表れだ。学校の先生になりたかったし、サッカー選手になりたかった。目の前の現実など知る由もない。目の前に現れる希望に自分を重ね続けて、知らないからこそ、盲目的までに自分の中に秘められた可能性を信じられる強さがあった。
そんなものは根拠なきただの過信に過ぎないなんてことを幼少期の自分が知ってしまったら、一体どんな気持ちになるのだろう。きっとそんな未来はないと喚いてしまうだろうし、明日にはケロッと忘れて日々を過ごしているのかもしれない。何者かになる。でも、なれないというあまりにも厳しい現実。現実と理想を行ったり来たりしては、絶望に打ちひしがれそうになった。いつしか夢を持つ行為自体がコンプレックスと化していて、夢が叶わなかった数だけその数も比例して増えた。
夢を持つという行為自体は立派だけれど、残酷にも叶えられる人と叶えられない人の2パターンが存在する。夢を叶えた人はキラキラした瞳で「夢は叶う」と言ってのけるし、夢が叶わなかった人は「夢は所詮夢でしかない。もっと現実見ろよ」と自分どころか他人の夢すらも叶わないと思ってしまう。たとえ一時的に夢が叶ったとしても、それが永続的だとは限らないし、ひとつの夢を叶えた途端に、また新しい夢を叶えたいと飽くなき欲求が芽生えるのが人間という生き物である。
夢を持つとは、ある種人を苦しめる要因となる可能性も秘めていて、同時に達成したときの喜びと出会えるきっかけになり得るものだ。「夢を見るなら寝て見ろ」と言われたこと。それは夢を見るだけであれば、お金も労力がかからないという残酷な事実である。どれだけの労力が必要で、でも、それが叶わなかったとして、自分の人生に納得感を持たせられる保証はどこにあるのだろう。
人生は後悔と納得の連続だ。強さを求めて行動をしたところで、結局は一度弱さが滲み出る。強さとは弱さを履き違えないことで、弱さとは自分の中にある強さに気づけないことだ。夢を叶えたその先にあるのは新しい夢で、それは永遠に続くものである。夢を叶えた側に行きたいと思いはするものの、いつか飽くなき欲求が己の首を絞めてしまうかもしれないと恐怖に打ちひしがれる自分もいる。夢を諦める。夢を追いかける。どちらを選んでも茨の道だとするならば、今宵君はどんな人生を選ぶのだろうか。
自分の最大の敵は過去の自分だという話をどこかで聞いた。今日はうまくいったとしても、明日は昨日の自分に負けるかもしれない。それでも一縷の希望に縋って少しずつ前に進む。幼少期のような純粋無垢な心はすでにどこかに置いてきてしまったようだ。どんな方法を選んでも、現実が目の前に現れては、その中でできることを模索していくことしか選べない。希望と挫折。その両輪を併せて楽しめるようになれば、人生は楽しくなるのかな。夜に塗れて、夢に笑う。そんな人生だったらいい。そうなりますようにと。星に願いを込めた2月の夜。