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諦めた夢の屍の上を歩いている

自分が昔に書いた文章を読んで、吐き気を催した。将来の夢、挑戦。あらゆるポジティブな言葉が社会に出て疲弊している自分の胸を締め付ける。希望に塗れたあの頃の文章は、今の捻くれ者が書いた文章とは到底思えない。自分にもキラキラした時期は確かに存在していて、人はこうも変わるのだろうかと疑問に思えるほど社会を斜めに見るようになってしまった。

SNSで流れてくる売るための文章術。情報商材屋さんもたくさん生まれてきて、情報をうる場所が壊れてはまた新しい場所ができての繰り返し。誰かのために書いた文章が自分の利益に繋がっているこの状況に虫唾が走る。かつてSNSでお金儲けをする人はほとんどいなかったのに、今ではあの世界は荒れ果てた地帯と化した。情報に踊らされる人、それを操作してお金を儲ける人もたくさんいて、学校の勉強はなんの役にも立っていないことを証明する。

なんてことを言ってはいるけれど、キラキラした夢を持っていた当時の僕は今のこの状況にまんまと嵌め込まれている自信がある。食うか食われるかだと、おそらく食われる側で全てを失った後に後悔するのがオチ。昔の文章を読み返しているとああ、こんなにもキラキラした文章を書いて、君は世の中に希望を抱いていたんだね。何も知らないって幸せだと皮肉でも投げ掛けたくなる。

昔に書いた文章はあまりにも拙くて、言っている内容も支離滅裂だ。とても大学生が書いたような文章を思えず、まるで小学生の作文のようなものだった。ため息しか出ない現状に、碌でもない大人が肩で息を切りながら目の前を過ぎていく。だが、それでも文章を書き続けているのは、一体なぜなのだろう。以前取材で「書くとは何か?」と問われた。何も回答の準備をしていなかったため、僕はメチャクチャなことを言ったと思う。しっかりその場面はカットされていて、文章を生業としているくせに恥ずかしい。

さて、今ならなんと答えるだろう。書くとは生を残すことだ。自分が経験したものを文章にする行為は紛れもなく、ここに生きた証を残す行為である。それを残すことで、昔に書いた文章を読んで、絶望を感じて吐き気を催す場合もあるかもしれない。

現状、将来の夢はまだありません。自分と自分の周りにいる人が幸せになりますように。そんなことばかりが頭の中に浮かんでくる。あまりにもスケールが小さくなったものだが、それが結構難しい。これは今までに諦めた夢の屍の上を今歩いているからこそ分かったことでもある。大きな夢が小さな夢に変わる。でも35歳になった僕が、今日書いた文章を読んだら、その夢も十分に大きすぎるよと肩を落とすのかもしれないとしても、恥を承知の上で今日も今日とて生きた証を残していく。

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