「もっと普通に考えたら?」
自分は普通じゃない
友達はいた。
いじめられることもなく、誰とでも仲良くなれる性格だったように思う。
だから、わりと空気を乱さない、いい性格だったのではないかと思う。
通知表にも必ず書かれていた。
「協調性がある」
だけど、自分の中の違和感は少しずつ拭えなくなっていった。
本音を吐いた時にされる反応。
「へぇ…難しく考えるね」
その度、”しまった!”と口をおさえる。
否定されている訳じゃなくても、普通じゃない所を見られた気がして、焦る。
愛想笑いでその場をやり過ごし、その人と離れてから悶々とする。
そして「正解をくれ」と思った。
10代の頃からよく母に言われた。
「そんな難しい事考えたことない。だからしんどくなるんじゃないの?もっと普通に考えたら?」と。
家庭を離れても色んな人から同じ事を言われるので、どうやら私は“普通じゃない”らしいことがインプットされ、
どんどん、自分の口元をおさえるようになっていった。
舞台裏の神様
小学校にあがる前、常々不安に思っていた事がある。
今目の前で笑っている母は、私の見えないところに行くと母ではなくなるのではないかと。
そしてそこにいる父も、祖母も、近所のおばちゃんも、みな、私に向けている笑顔は今だけのもので、
私と反対の方向を向いた途端に笑顔が消え、舞台袖に帰って行ってるのではないかということ。
つまりこの世界は、神様が見張っている。
そして、自分のいい行いも、悪い行いも常に一部始終を見られていて、大人が配置され、評価されるのだ。
「この世界は、ニセモノなの?」
と誰かに聞きたかった。
けど、それを聞いたときには、
ファンファーレと共に「よく気付いたね!おめでとう!」と神様が現れ、
今までの“登場人物”が現れて拍手喝采。
この世界の幕が終わると信じていた。
だからずっと聞けなかった。
大人に笑顔を向けられると、ふとよぎる不信感。
ある日、耐えきれず母にきいた。
「本当は偽物なんでしょ?」
母は聞こえなかったらしく、「え?」と笑顔で聞き直した。
さようなら、と心の中でつぶやいた。
だけど、何も起こらず、母も気にとめず、
滞りなく、日常がそこにあった。
神様ならいま聞こえたはずなのにな。
その日、この世界は世界のままなのだと知った。
表現するということ
この話を、30代半ばになってからカウンセラーに話したのだが、実はそれが最初にまともに誰かに話した経験だった。
黙っていた訳ではないのだが。
ふと、自分を可哀想に思って話したのだった。
ずっと寂しかった。
本物だよと、言って欲しかった。
今ではそんなファンダジックなことは考えない。
ただ、他人がどのように自分を見ているのは、やっぱりよくわからないし、世界の成り立ちもわからない。
やっぱり人と違う、と感じることも多い。
例え協調性があったとしても。
文章にしたり、音楽にしたり、
表現活動を通して客観的に私を捉えなおさないと、
自分が何を思っているのかさえよくわからない。
相手に言葉にしてもらわないと、私の成り立ちがわからない。
困ったものだなと思う。
どうすれば、もっと生きやすくなるのかなと思う。
だけど、表現方法を身につけて誰かに届ける度に、
そんな昔の可哀想な私さえ、
愛くるしい登場人物に変わるのだということを、最近知った。
きっと、私は私のこと、ずっと「普通じゃない」と思うだろう。
もしかしたらずっと、好きになれないかもしれない。
だけど、表現活動を続けていけば、いつか、
なんの意味を持たせなくても、そのままで立っていられるようになるのかも。
音楽で?
文章で?
絵画で?
小説で?
いつか、たくさんの人になにかを届けて、
誰かの助けになりたいな。