足の小指をドアにぶつけて泣いたこと
足の小指をドアにぶつけてしまいました
よりによってランニングで腫れている右足の小指を自室のドアを引いたときに、ぶつけてしまったのです。
あまりの痛さに悶絶です。妻は仕事中で家でひとり。なぜよりによってケガしているところをぶつけたのでしょうか。涙が自然と出てきます。
だれもいないのにその痛みをガマンしてしまうのも不思議です。もっと声を出してギャーギャー騒いでもいいはずです。
なのに長年の習慣から、声も出さずぐっと痛みをこらえています。「あ、いてー。いたた。。。」と声にもならない声ぐらいは発しますが、うずくまって小指を手で押さえる程度です。
よくよく考えてみればだれもいないのですから、泣きわめいたほうがすっきりするかもしれません。「ちくしょうめ!!!」と怒鳴りちらしてもいいはずです。
でもどこかで「痛みや苦しみの感情はなるべくおさえなくては」といった思いがあるのかもしれません。
いい大人が感情的に騒ぎ立てるのは美徳に反するらしいのですから。
泣き女
中国や台湾、韓国では痛みや苦しみなどの感情をあらわにすることがよしとされていますね。映画でもお葬式で泣きわめく場面をよく見ますし、実際に中国現地でそういった現場に居合わせたことがあります。
こうしたアジアの国々では今でも「泣き女」的職業が存在していて、葬儀の際に泣き女が率先して泣くことで、ほかの参列者が泣けるよう促しているそうです。悲しみを押し殺すのではなく、ともに悲しみを表現するために泣き女は存在しているとのこと。
まあ一説には悪霊ばらいや、死者が復活するとされる魂呼ばいとしての性格もあるといわれています。
日本でも儒教の教えが根強かった戦前までは、泣き女という職業が存在していたそうです。意外です。
泣き男
でもこれからは「泣き男」の時代かもしれません。痛かったり苦しかったりしたら、人前であろうがなかろうが「エンエン」泣きわめくのもありかもしれません。
きっとまわりの人も驚くことでしょうが、それに流されてはいけません。感情のまま泣いてみましょう。
そうだ、こんど妻とケンカしたら先に泣いてみよう。そしたら勝てるかも!
そんなことまで考えてしまいます。
それにしても大人にせよ子どもにせよ男にせよ女にせよ人前で泣くことが、なぜあまり良しとされないのでしょうか。考えてみると理屈がよくわかりません。
だから私も部屋でひとり小指をぶつけたときぐらいは、感情を露わに泣きわめきたいと思います。
思い返せば
きょう足をぶつけてうずくまったときは脚が自然と「おねえさん座り」になりました。これに嗚咽を加えればなかなか壮麗な姿かもしれません。
こんなことを考えるすてきな月曜日が始まりましたね。